第49話「握り潰した女」
その夜、ザラとヘルガは、詰め所の隅で、二人だけで飲んだ。
俺は、少し離れた場所で、帳簿を繰るふりをしながら、聞くともなしに、聞いていた。盗み聞きの趣味はない。ただ、この二人の話は、村の命運に関わる。聞いておく義務が、領主にはあった。
「なぜ、握り潰したんです」
ザラの声は、酒が入っても、硬かった。
「あたしは、逃げた兵です。作戦を拒んで、逃げた。処罰されて、当然だった」
「あの作戦が、まともだったと思うか」
ヘルガの声は、静かだった。
「大人しい巣を焼いて、群れをわざと村に追い込む。『魔物の被害』を、自分の手で作る。そうやって討伐数を水増しして、報奨を吊り上げ、駐留の予算を守る。……あれが、武人のやることか、ザラ」
「……いいえ」
「わたしもだ。反吐が出た。だが、わたしは剣聖でな。剣聖ってのは、上が決めたことに、剣を貸す立場だ。拒めば、わたし一人の話じゃ済まん。だから、拒まなかった。……代わりに、拒んだお前を、逃がした」
酒杯を置く音が、した。
「お前は、わたしが出来なかったことを、やった。だから、生きてろ。帳簿の上で死んだままで、どこか遠くで、飯を食って、生きてろ。……それが、わたしの、せめてもだ」
ザラは、しばらく、何も言わなかった。
やがて、掠れた声で、一言だけ。
「……あの作戦で、死んだ村が、ありました」
「ああ」
「子供が、親を亡くした村が」
「……知ってる」
俺は、帳簿を繰る手を、止めていた。ミナ。あの子の、両親。ザラが凍りついた、あの理由。剣聖もまた、知っていた。この、静かな二人の会話の底に、一人の子供の、失われた親が、沈んでいた。
*
夜が更けて、ザラが酔い潰れて眠った後。
ヘルガは、一人、残って飲んでいた。俺が茶を淹れ直しに行くと、彼女は、ぽつりと、こぼした。
「……近頃、剣の乗りが悪い」
「乗り、ですか」
「加護だよ。武神ガルド様の加護。若い頃は、剣を握れば、体が羽みたいに軽くなった。……近頃は、鈍い。歳のせいだと思ってたが」
彼女は、自分の手のひらを、見つめた。歴戦の、傷だらけの手を。
「先だって、他の頂点位と会ってな。聞いたら、あいつも同じことを言う。『加護の効きが、昔より鈍い』と。……国中の、加護持ちが、少しずつ、目減りしてる。誰も口にせんが、みんな、感じてる」
俺は、何も言えなかった。それが何を意味するのか、俺には分からない。分からないまま、その言葉だけが、ほかの疑問より重く残った。
「まあ、老いの繰り言だ。忘れてくれ」
ヘルガは、茶を飲み干して、立ち上がった。そして、去り際。
歴戦の目が、ふと、俺を——正確には、俺の手を、見た。魔物を鎮めたと噂の、修理屋の領主の、その手を。
「領主どの」
「はい」
「あんた、何を隠してる?」
心臓が、跳ねた。
「……修理の腕くらいですかね。企業秘密でして」
「はっ」
ヘルガは、笑った。だが、目は笑っていなかった。崖の目とは、また違う。もっと、深いところまで見透かす——戦場で、嘘と本気を見分けてきた、その目だった。
「……まあいい。今夜は、飯が美味かった。それで、十分だ」
彼女は、天幕へ帰っていった。俺は、その背中を見送りながら、確信した。
あの人は、気づいている。まだ、何にとは言えないが——「この村には、隠していることがある」と、確信している。
そういう目だった。




