第48話「剣聖」
大剣の女は、天幕には戻らなかった。
士官が慌てて何か耳打ちしたが、女は手で追い払い、まっすぐ村の中へ歩いてきた。兵たちが道を空ける。その空け方で分かった。あれは、この調査隊の誰よりも、格上だ。
「領主は、あんたか」
近くで見ると、四十前後か。日に焼けた顔に、古い傷がいくつも走っている。戦場を、いくつもくぐった顔だった。
「アルト・ハーヴェルです」
「ヘルガだ」
それだけ、だった。位も、肩書も、名乗らなかった。だが、その一言の重さに、俺の背筋が、勝手に伸びた。名前だけで足りる人間、というのがいる。前世で、何度か会った。役職を言わない社長が、一番怖い。
ヘルガは、俺を値踏みするでもなく、村を見回した。井戸。塀。畑。療治場の方角。そして——ふと、村の奥、薪割り場で凍りついている女に、目を留めた。
*
「ザラ」
ヘルガが、名を呼んだ。
薪割り場のザラの肩が、びくりと跳ねた。頭巾を目深にかぶったまま、彼女は動かない。逃げるべきか、開き直るべきか、その計算をしている、兵隊の背中だった。
俺は、間に入ろうとした。ヘルガが、片手で、それを制した。
「隠れんでいい、ザラ。……久しぶりだな」
ザラは、ゆっくりと、頭巾を上げた。観念した顔だった。
「……お久しぶりです。剣聖どの」
剣聖。
その言葉に、村人がざわめいた。闘騎の頂点。ガルド帝国の、生ける宝。おとぎ話の中の存在。それが、今、うちの薪割り場で、うちの防衛隊長と、向かい合っている。
俺は、身構えた。ザラは、実質、脱走した兵だ。剣聖ともなれば、それを罰する権限くらい、あるだろう。この場で斬られても、おかしくない。
だが。
ヘルガは、剣に手をかけなかった。代わりに、村の竈場から漂ってくる、ハンナさんの夕餉の匂いを、鼻で嗅いだ。
「……いい匂いだな」
「は?」
「飯だよ、飯。この村の飯は、美味いか。ザラ」
ザラが、面食らった顔をした。俺も、した。詰問も、断罪も、来なかった。剣聖は、ただ、飯の匂いを嗅いで、目を細めていた。歴戦の兵が、故郷の匂いを嗅いだような、そういう顔だった。
「……美味い、です」とザラが、ぎこちなく答えた。「特に、麦粥が」
「そうか」
ヘルガは、頷いた。それから、俺を見た。飯の話の続きのような、あまりに軽い口調で、彼女は言った。
「領主どの。一晩、世話になる。……ああ、金は払う。剣聖でもな、飯代は踏み倒さん主義でね」
そして、去り際。
彼女は、ザラの横を通り過ぎながら、誰にも聞こえないほどの低い声で——だが、俺の耳には、風の加減で、届いてしまった声で、言った。
「あの除隊記録な」
ザラが、息を呑んだ。
「わたしが、握り潰した。……お前が消えた後、始末書の山に紛れ込ませてな。だから、お前は今も、帳簿の上じゃ『病死』だ」




