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第46話「奇跡の谷」

噂は、魔物の群れよりも足が速かった。


三日で、(ふもと)の町に届いた。リエラが渋い顔で運んできた。


「『奇跡の谷』。……そう呼ばれてるわよ、もう。北の緩衝帯で、魔物の群れが一夜で消えた谷がある、って。避難民が言いふらしてるの。悪気はないのよ。ただ、助かったのが嬉しくて、あちこちで喋ってる」


「消えた、じゃないんだけどな」と俺。「鎮めただけで、みんな縄張りに帰った」


「そんな正確な話、噂は運ばないの。『魔物が消えた』『聖人がいるらしい』『いや、呪いが浄化されたんだ』——尾ひれがついて、どんどん大きくなってる」


聖人。呪いの浄化。俺の与り知らぬところで、俺は、そういうものになりつつあるらしい。


「……巡礼者が、来るかもしれない」


リエラの言葉に、村会議の空気が、重くなった。避難民の三家族。魔物の大群を鎮めた「奇跡」。麓を走る噂。そして——丘の上から、それを見ていた帝国の斥候。


隠しきれる規模を、とっくに、超えていた。



会議は、紛糾した。


「いっそ、堂々と『腕のいい修理屋の村です』で押し通すのはどうだ」とドガ。「巡察のお墨付きもあるんだろ」


「魔物を鎮めたのは、修理じゃ説明つかないわ」とリエラ。


「なら、避難民に口止めを」


「もう遅い。町中が知ってる」


堂々巡りだった。俺は、黙って聞いていた。どの案も、どこかで破綻する。この村の「変」は、もう、一つの嘘では覆いきれないほど、積み上がっていた。


——その時、だった。


「あー、悪いね。茶を一杯、恵んでくれないか」


会議をしていた詰め所の戸口に、ふらりと、男が立っていた。


見ない顔だった。旅装の、風来坊。歳は分からない。若いようにも、ずっと年上のようにも見える、不思議な顔立ちだった。リエラの荷車について来た行商仲間、ということになっていたが——リエラが「え、誰?」という顔をしていたので、多分、違う。


「街道で難儀しててね。この村、水が旨いって聞いたもんで」


図々しい男だった。だが、不思議と、警戒する気になれなかった。ハンナさんが茶を出すと、男はそれを旨そうに飲んで、村の縁——魔物たちが伏せている方角を、ちらりと見た。


「いい村だ」


ぽつりと、言った。


「守るもんが、多い村だね。……大変だろう」


その言い方に、俺は、なぜか、どきりとした。


「あんた、何を」


「いやいや。旅の勘だよ。守るもんが多い奴は、顔に出る。あんた、いい顔してる」


男は茶を飲み干し、椀を返し、立ち上がった。去り際、彼は俺にだけ聞こえる声で、付け足した。


「——空を、たまには見上げるといい。北だけじゃなく、いろんな方角から、あんたを見てる目があるよ。……悪い目ばかりじゃ、ないさ」


風が、吹いた。


戸口を出た男の姿は、その風に紛れて、いつの間にか、消えていた。追って外に出たリエラが、「いない。どこにも」と、きょとんとしていた。


「……ヴェルク。今の、何だ」


夜、(ほこら)で聞くと、人形は、めずらしく、機嫌のいい声で笑った。


「ふぉっふぉ。……風来坊じゃろ。旅の」


「あんた、知ってるな」


「さての」


言わぬが花、の笑い方だった。ただ、その夜のヴェルクは、いつもより、少しだけ、寂しくなさそうだった。



風来坊が去って、二日後。


街道の先に、今度は、隠れも紛れもしない、堂々たる一団が現れた。


磨かれた鎧。ガルド帝国の、鉄拳の紋。荷馬車と、騎馬と、そして——見慣れない、幌をかけた大きな車が、数台。


「帝国の……調査隊だ」


ザラの声が、また、兵隊のものに戻っていた。

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