第46話「奇跡の谷」
噂は、魔物の群れよりも足が速かった。
三日で、麓の町に届いた。リエラが渋い顔で運んできた。
「『奇跡の谷』。……そう呼ばれてるわよ、もう。北の緩衝帯で、魔物の群れが一夜で消えた谷がある、って。避難民が言いふらしてるの。悪気はないのよ。ただ、助かったのが嬉しくて、あちこちで喋ってる」
「消えた、じゃないんだけどな」と俺。「鎮めただけで、みんな縄張りに帰った」
「そんな正確な話、噂は運ばないの。『魔物が消えた』『聖人がいるらしい』『いや、呪いが浄化されたんだ』——尾ひれがついて、どんどん大きくなってる」
聖人。呪いの浄化。俺の与り知らぬところで、俺は、そういうものになりつつあるらしい。
「……巡礼者が、来るかもしれない」
リエラの言葉に、村会議の空気が、重くなった。避難民の三家族。魔物の大群を鎮めた「奇跡」。麓を走る噂。そして——丘の上から、それを見ていた帝国の斥候。
隠しきれる規模を、とっくに、超えていた。
*
会議は、紛糾した。
「いっそ、堂々と『腕のいい修理屋の村です』で押し通すのはどうだ」とドガ。「巡察のお墨付きもあるんだろ」
「魔物を鎮めたのは、修理じゃ説明つかないわ」とリエラ。
「なら、避難民に口止めを」
「もう遅い。町中が知ってる」
堂々巡りだった。俺は、黙って聞いていた。どの案も、どこかで破綻する。この村の「変」は、もう、一つの嘘では覆いきれないほど、積み上がっていた。
——その時、だった。
「あー、悪いね。茶を一杯、恵んでくれないか」
会議をしていた詰め所の戸口に、ふらりと、男が立っていた。
見ない顔だった。旅装の、風来坊。歳は分からない。若いようにも、ずっと年上のようにも見える、不思議な顔立ちだった。リエラの荷車について来た行商仲間、ということになっていたが——リエラが「え、誰?」という顔をしていたので、多分、違う。
「街道で難儀しててね。この村、水が旨いって聞いたもんで」
図々しい男だった。だが、不思議と、警戒する気になれなかった。ハンナさんが茶を出すと、男はそれを旨そうに飲んで、村の縁——魔物たちが伏せている方角を、ちらりと見た。
「いい村だ」
ぽつりと、言った。
「守るもんが、多い村だね。……大変だろう」
その言い方に、俺は、なぜか、どきりとした。
「あんた、何を」
「いやいや。旅の勘だよ。守るもんが多い奴は、顔に出る。あんた、いい顔してる」
男は茶を飲み干し、椀を返し、立ち上がった。去り際、彼は俺にだけ聞こえる声で、付け足した。
「——空を、たまには見上げるといい。北だけじゃなく、いろんな方角から、あんたを見てる目があるよ。……悪い目ばかりじゃ、ないさ」
風が、吹いた。
戸口を出た男の姿は、その風に紛れて、いつの間にか、消えていた。追って外に出たリエラが、「いない。どこにも」と、きょとんとしていた。
「……ヴェルク。今の、何だ」
夜、祠で聞くと、人形は、めずらしく、機嫌のいい声で笑った。
「ふぉっふぉ。……風来坊じゃろ。旅の」
「あんた、知ってるな」
「さての」
言わぬが花、の笑い方だった。ただ、その夜のヴェルクは、いつもより、少しだけ、寂しくなさそうだった。
*
風来坊が去って、二日後。
街道の先に、今度は、隠れも紛れもしない、堂々たる一団が現れた。
磨かれた鎧。ガルド帝国の、鉄拳の紋。荷馬車と、騎馬と、そして——見慣れない、幌をかけた大きな車が、数台。
「帝国の……調査隊だ」
ザラの声が、また、兵隊のものに戻っていた。




