第45話「治す者」
狂化個体は、群れを蹴散らして、まっすぐ突っ込んできた。
味方も敵もない。目に映るものすべてを壊す、それだけの獣になっていた。シルヴァが吠えて立ちはだかったが、体格が違う。弾き飛ばされる。ザラが大剣で受けた——受けきれず、二歩、三歩、後退る。
「アルト様、下がれ!!」
下がらなかった。
代わりに、俺は前に出た。我ながら、正気の沙汰じゃない。だが、視えてしまったのだ。あの狂化個体の図面が。全身を捻じ曲げられ、悲鳴を上げ続けている、あの「あるべき形」の残骸が。
あれは、敵じゃない。
壊れた獣だ。壊されたまま、壊れ続けている、一頭の。
「シルヴァ! 押さえろ! 一瞬でいい!」
銀狼が、応えた。狂化個体の脚に食らいつき、ザラと部下が左右から得物で牽制し、その一瞬の隙に——俺は、跳んだ。濁った赤い獣の、逆立った毛並みに、両手で、触れた。
図面が、全開になった。
ひどい捻れだった。シルヴァの古傷が線一本の歪みなら、これは、図面そのものが握り潰されたような。どこから戻せばいいのか、一瞬、迷った。迷って——決めた。端からじゃない。芯からだ。この獣の「あるべき形」の、一番深いところ。まだ、消えずに残っている、正しい線の、その一本を掴む。
戻れ。
「——戻れ!!」
獣の全身が、痙攣した。
濁った赤が、目から、抜けていく。逆立った毛が、なだれのように鎮まっていく。握り潰されていた図面が、ゆっくりと、正しい形へ——ほどけていく。俺の腕を、獣の熱が、突き抜けた。器の底が、ぐらりと軋んだ。今までで、一番深く、力を汲んだ手応えだった。
狂化個体が、崩れるように、伏せた。
濁りの晴れた目が、俺を見上げた。そして——今まで治した、どの魔物とも同じ、あの目になった。恐怖でも敵意でもない。仔犬が、母親を見上げるような。
「……よし」
俺は、その場に膝をついた。立っていられなかった。
*
一頭が鎮まると、あとは、早かった。
狂化個体という「核」が消えたことで、群れの恐慌が、潮が引くように収まっていった。シルヴァが統率し、鎮まった魔物たちが、逆に、まだ怯えている仲間を宥めにかかる。療治場が、その日、村の縁いっぱいに広がった。何十頭という魔物が、線の外に伏せ、順番に、俺の前へ来た。
日が傾くまで、俺は触れ続けた。触れて、視て、戻して。汗みずくで、指の感覚はとうに失せて、それでも、手は動いた。手を動かしている間だけ、世界は静かだ。六歳から、ずっとそうだ。
最後の一頭を送り出した時、村の縁は、静まり返っていた。
数十頭の魔物が、線の外に、行儀よく伏せていた。誰一人——誰一頭、村を襲わなかった。避難民たちが、腰を抜かして、その光景を見ていた。ザラの部下が、得物を下ろすのを忘れて、立ち尽くしていた。
「……領主様は」
避難民の一人が、震える声で言った。
「領主様は、何者、なんだ」
答えられる者は、いなかった。俺自身が、答えを持っていないのだから。
*
その、夕暮れ。
俺が、ようやく立ち上がって、汗を拭った、その時。
ザラが、鋭く、北を指した。
遠くの、なだらかな丘の上。夕陽を背にして、騎馬が一騎、こちらを見ていた。距離があっても分かる。あれは、避難民でも、狩人でもない。
磨かれた鎧が、夕陽を弾いていた。
「……帝国の、斥候だ」
ザラの声が、低く、沈んだ。
「見られた」




