第44話「なだれ」
村は、たちまち戦支度になった。
といっても、戦える者は少ない。ザラと、その除隊兵仲間が二人。狩人のドガの組が、たまたま護衛帰りで村にいて、五人。あとは年寄りと子供と、俺だ。
「アルト様は、下がっていろ」
ザラが、大剣を担ぎ直しながら言った。
「あんたは戦えん。ひょろい領主様が前に出ても、盾にもならん。……ミナと年寄りを、領主館へ。それが、あんたの仕事だ」
正論だった。俺の力は「直す」力で、「壊す」力じゃない。土煙を上げて迫る魔物の群れを前に、俺にできることは——。
いや。
「ザラさん。一つだけ、聞いてくれ」
俺は、北を見た。土煙の中に、もう、影が見え始めていた。何十頭。あるいは、もっと。怯えて、逃げ惑い、そして——この村の「線」めがけて、雪崩れ込んでくる獣たち。
「あの群れ。……襲いに来てるんじゃない」
「何?」
「怖くて、逃げてるんだ。逃げて、逃げて、この村に、寄ってきてる」
シルヴァが、俺の隣で、また吠えた。肯定するように。北の巣を追われた魔物たちが、哭原でただ一つの「安全な場所」を目指して、なだれ込んでくる。それが、この土煙の正体だった。
「だから、俺は——治す」
「治す?!」
「あいつらは、傷ついて、怯えてる。壊れかけてる。……なら、俺の仕事だ」
*
群れが、線に達した。
先頭の獣が、シルヴァの前で、たたらを踏んだ。混乱した目。だが、シルヴァの姿を認めると、獣たちの奔流が、堰を作られた川のように、線の外側で渦を巻いた。銀狼が、吠え、走り、群れを捌く。療治場の交通整理の、何十倍もの規模で。
俺は、線の際に立った。手近な一頭に触れる。図面を開く。怯えで竦んだ筋。逃げ惑って傷めた脚。戻れ——落ち着け。撫でるように、祈る。獣が、震えて、伏せる。次。また次。
シルヴァが群れを堰き止め、俺が端から鎮めていく。恐ろしく地味で、恐ろしく消耗する作業だった。額に汗が噴き、指先の感覚が遠くなる。それでも、一頭鎮めるごとに、渦が、少しずつ、凪いでいった。
——その時だった。
背後で、ザラが、動きを止めた。
大剣を構えたまま。迫る群れではなく、群れの「来た方角」を——焼かれた北の巣を、見ていた。
「……嘘、だろ」
彼女の声が、掠れていた。
「この、群れの散らし方。巣の、焼き方。……これは、しくじりじゃ、ない。わざとだ。あいつら、群れを『こっち』へ追い込むように、焼いた」
「ザラさん?」
「北の村を、被害に、するために」
彼女の目が、大きく見開かれていた。戦場の兵隊の目でも、村の防衛隊長の目でもない。もっと古い、抉られた傷を、今この瞬間に、もう一度抉られている目だった。
「同じだ。……あたしが、拒んだ、あの作戦と。全部、同じ、やり方だ」
俺は、彼女が何を言っているのか、この時はまだ、半分しか分からなかった。
分かったのは、ザラの視線が、ふと、領主館の窓——避難させたはずの子供たちが顔を覗かせている、その中の、ミナの姿を捉えて、そして、耐えきれないように、逸らされたことだった。
「……あの子の親も」
ザラは、それだけ言って、口を噤んだ。
言わなかった続きを、俺は聞かなかった。聞けなかった。だが、心臓の底で、冷たい何かが、繋がった音がした。
その時。
凪ぎかけた群れの、奥。
一頭が、他とは違う動きで、立ち上がった。全身の毛が、渦を巻いて逆立ち、目が、濁った赤に染まっている。あの、シルヴァの古傷と同じ——いや、それよりも深い、「捻れ」を全身に纏った獣。
心を、失っている。
狂化個体だ、と、体が理解した。




