第40話「幕間④・御子の夜」
【幕間・御子の夜】
——南へ向かう白い馬車の中で、エレンは目を閉じていた。
眠ってはいない。祈っていた。御子の祈りは、手紙に似ている。胸の奥の、テラ様の在す場所へ向けて、言葉を綴る。すると温かい返事が、雨が土に沁みるように、降りてくる。七年間、毎日そうしてきた。
テラ様。
見て参りました、あの村を。
返事は、すぐに来た。いつもの温かさで。「ご苦労さま。疲れたでしょう」と。凶作の北辺の巡り方について。冬前の祝福の配り方について。尋ねれば尋ねただけ、豊かに、細やかに。
だから、エレンは最後に、もう一度だけ尋ねた。
——あの村の祝福は、どなたのものですか。
沈黙が、降りた。
温かいままの、沈黙だった。それが一番、怖かった。突き放す沈黙なら、まだ分かる。これは違う。言いたいのに言えない者の沈黙だ。喉まで出かかった言葉を、何かの理由で、呑み込み続けている者の。
神様にも、言えないことがあるのだろうか。
あるのだとしたら——誰に対して、言えないのだろう。
「……テラ様は、あの村が、お好きなのですね」
エレンは、そこだけ、確信をもって呟いた。返事はなかった。だが胸の奥が、ほんの少し、春の土の匂いがした。それは肯定より雄弁な肯定だった。
*
考えるべきことは、山ほどあった。
あの土。あの領主。「何者でもありません」と言った時の、あの男の目——嘘をついている目ではなかった。嘘をつけない人間が、必死に何かを守っている目だった。ああいう目を、エレンは知っている。凶作の年、供出を減らしてくれと頭を下げに来る、村長たちの目だ。
守っているのだ、あの人も。何かを。あるいは、誰かを。
それに——認めよう。あの村にいる間、体が、軽かった。
御子になって七年。テラ様の力を預かる誉れと引き換えに、体はゆっくり重くなっていった。誰にも言っていない。言えば皆が悲しむ。歴代の御子がどれくらいで「お隠れ」になったか、エレンは知っている。知った上で、選んだ道だ。後悔はしていない。
していないが——あの村の、あの畑に立った時。
胸の奥の重さが、ほんのひととき、和らいだのだ。古くて、深くて、静かな何かが、まるで——「よく来たね」と、迎えてくれたみたいに。
「……もう一度、行こう」
御子ではなく、と言ったのは本心だった。あの村の謎のためでも、報告のためでもなく。ただ、あの畑にもう一度立ちたい。あの重さの和らぐ場所に。
エレンは窓の帳を、指先で少しだけ開けた。
暮れていく空。遠ざかる北の地平。哭原の灰色が、夕闇に溶けていく。……発って、もう、幾日になるだろう。彼女は、帳を、反対側の窓へ、移した。進む先——王都へ続く街道の彼方に、なだらかな丘の稜線が、見え始めていた。
眠り丘。
王都の民が、丘だと信じているもの。
エレンは御子だ。だから、知っている。あれが何であるかを。即位の儀で一度だけ、あの丘の前に立たされた。「テラ様の遣いに、代替わりの挨拶を」と。丘は、目を開けもしなかった。歴代の御子の誰に対しても、開けたことがないという。
その丘の稜線を、なんとなく目でなぞって——
エレンは、身を、乗り出した。
丘の輪郭が。千年、変わらなかったはずの稜線が。
——北を、向いていた。




