第39話「何者でもない」
「何者、と言われましても」
俺は、領主の顔で答えた。
「アルト・ハーヴェル。ハーヴェル男爵家の三男で、当領の領主です。鑑定は回路なし。……世間で言うところの、無録の領主です」
一言も、嘘はない。誰かさんの流儀が、すっかり俺の流儀になっている。
「無録……」
エレン様は、俺をじっと見た。御子の目だ。人の徳やら罪やらが視えたりするのだろうか、と内心冷や汗をかいたが、彼女はやがて、ふっと息を吐いた。
「ごめんなさい。詰問するみたいな言い方でした。……順を追って、話します」
彼女は、窓辺の椅子に、今度は座った。
「私は農家の生まれです。畑で育って、十五の洗礼で、大加護が出て。……大加護が出ても、すぐ御子になるわけじゃ、ありません。二年、候補として、都で見られて。十七で、神託が下りました。以来七年、テラ様の御子をしています。……御子が何か、知っていますか」
「神様の力を、お預かりする方だと」
「そう。預かるんです。此処に」
彼女は、自分の胸の真ん中を、指した。図面の上で、あの楔が刺さっている、正確にその場所を。
「テラ様の声が、いつも聞こえます。祝福の届け先も、凶作の兆しも、みんな教えてくださる。……七年間、一度も、外れたことはありませんでした」
「それは」
「この村のことを、お尋ねしたんです。巡遊の前に」
エレン様の声が、初めて、揺れた。
「北辺の、リンデという村の実りは、あなたの祝福ですか、って。いつもみたいに、すぐ、お答えがあると思ったんです。なのに」
彼女は、両手を膝の上で握り合わせた。
「テラ様は、何も、おっしゃらなかった」
夜の執務室が、静かになった。
「七年で、初めてです。神様が、黙るのは。……ううん、違う。黙る、とも違う。あれは——言えないことがある時の、沈黙でした。私、分かるんです。ずっとお声を聞いてきたから。人が言葉を飲み込む時と、同じ気配がした」
俺は、何も言えなかった。言えることが、何もなかった。テラ神が何を知っていて何を黙ったのか、俺自身が知らない。ただ、心当たりの方角だけが、ある。北の、祠と、その地下の。
「だから、来ました。自分の目で見るために。……そして、見ました。私の神様の手触りじゃない祝福と、地図にない村と、回路なしで領地を立て直した領主と」
御子は、立ち上がった。
「アルト・ハーヴェルどの。もう一度だけ、聞きます。あなたは——」
「何者でもありません」
今度は、俺が先に言った。
「強いて言えば……修理屋です。壊れた物を、直しています。屋根とか、井戸とか、農具とか。それだけの者です」
言われたことに偽りはない。言われなかったことのほうが、ずっと大きいだけで。
エレン様は、長いこと俺を見て——それから、ふ、と肩の力を抜いた。負けを認めたような、あるいは、これ以上は自分の領分ではないと悟ったような、そういう息だった。
「……この村の実りが、悪いものでないことだけは、分かります。土は正直です。悪意の上に、ああいう作物は育たない」
「恐れ入ります」
「今日のことは、報告に書きません。書けることが、何もないので」
彼女は戸口で一度だけ振り返り、小さく、付け足した。
「でも、また来ます。今度は御子ではなく——畑の見学に」
*
翌朝、白い馬車は発っていった。
見送りの列で、俺は最後まで、あの楔のことを言えなかった。抜けば、彼女は楽になる。だが抜き方も、抜いた後に何が起きるかも、まだ何も分からない。分からないまま人に触れるのは、修理屋のやることじゃない。
——せめて、調べよう。あれが何なのか。抜けるものなのか。
馬車の窓の中、エレン様は目を閉じていた。侍女が心配そうに覗き込み、その唇が動くのが、遠目にも読めた。
御子様、お顔の色が。




