第38話「豊穣の御子」
御子の滞在は、一晩と決まった。
村は上を下への大騒ぎになった。ハンナさんは竈場に立てこもり、フィオナさんは礼拝堂を三度磨き直し、マルタ婆さんは「御子だろうが婆の茶を飲んでもらうよ」と例の渋いやつを煮出した。エレン様は、その渋い茶を一口飲んで、目を丸くして、「おかわりを」と言った。マルタ婆さんはその日から御子のことを「見どころのある嬢ちゃん」と呼ぶようになった。不敬である。
夕餉は、詰め所の長机で、村の皆と一緒だった。
御子が上座を断ったのだ。「畑の話が聞きたいので、真ん中に」と。彼女は本当に、畑の話ばかりした。連作の障り、種の選り方、北風の避け方。受け答えするうち、村の年寄りたちの背中から強張りが抜けて、いつもの飯の空気になった。
いい人なのだ。多分、本物に。
だからこそ、俺は、見てしまったものの置き場に困っていた。
*
最初に視えたのは、夕餉の席だった。
エレン様が笑った拍子に、彼女の輪郭が、ほんの一瞬、透けた。
疲れのせいだと思った。角灯の光の加減だと。だが違った。俺の眼が、勝手に開いたのだ。人の図面は視ないと決めている。決めているのに、彼女のそれは、向こうから飛び込んできた——あまりにも、大きな「ずれ」だったから。
彼女の魂の図面に、楔が、打ち込まれていた。
そうとしか言いようがなかった。人のあるべき形の、いちばん深いところに、外から、巨大な何かが割り込んでいる。まばゆくて、荘厳で——そして、めりめりと、彼女を軋ませている。楔の周りの図面が、木口の割れみたいに、細かくひび割れていた。
そのさらに外側を、細い光の筋が五つに枝分かれして走っていた。これが、貴族の血に宿るというマナ回路なのだろう。だが、血管や神経とは違う。曲がり角の角度も、枝の間隔も、妙に揃いすぎている。生まれつきの器官というより、誰かが決めた規格に沿って、後から配線したような——。
考えかけたところで、楔の軋みが、もっと大きな悲鳴を上げた。俺の眼は、そちらへ引き戻された。
あの梁と、同じだった。ミナが「悲鳴」と呼んだ、あれと。
これが、御子。
神の力を宿すということの、図面の上の、本当の姿。
「——直したい」
気づいたら、膝の上で拳を握っていた。疼く。今までで一番強く。あの楔は、間違っている。人の形は、ああいうふうに割り込まれるために出来ていない。抜けば直る。抜き方も、多分、視れば分かる。今すぐ、あの人に触れて——
「(坊主)」
肩の上で、小さな声がした。ミナに貸し出されていたはずのヴェルクが、いつの間にか戻っていた。
「(気持ちは分かる。じゃが、今はならん)」
「(……あれは、何なんだ)」
「(御子という仕組みの、正体じゃ。……見てしもうたか。お前のその眼は、ほんに、ろくなものを見逃さんの)」
ヴェルクの声には、怒りが滲んでいた。俺にではない。楔に、でもない。もっと遠くの、楔を打った何かに対する、深くて古い怒りだった。
*
夜、俺は執務室で帳簿の写しを整えていた。明日の朝、御子に村の現況を報告する段取りだった。
戸が、叩かれた。
「夜分に、すみません」
エレン様だった。護衛も侍女もつけず、一人で。
「少しだけ、話せますか。……領主どのと、二人で」
断れる相手ではない。椅子を勧めると、彼女は座らず、窓の外——北の闇を見た。哭原の方角を。それから振り向いた彼女の顔から、夕餉の席の柔らかさが、消えていた。
御子の顔ですらなかった。何かを、ずっと堪えてきた人の顔だった。
「単刀直入に聞きます」
「はい」
「あなた——何者?」




