第37話「御子エレン」
御子。
その言葉の重さを、俺は頭では知っていた。各国に一人。神託で選ばれ、神の権能を宿す、生ける聖人。王ですら御子の前では席を譲る。辺境の廃村に来るような存在では、天地がひっくり返っても、ない。
その天地がひっくり返った馬車が、いま、村の入り口に停まっていた。
白塗りの車体に、豊穣神テラの麦穂の紋。護衛の耕導士が四人、侍女が二人。そして、馬車から降り立ったのは——飾り気のない旅装の、若い女性だった。
停車の際、後輪が雨上がりの路肩へ半分沈んだ。護衛の一人が膝をつき、掌を地面へ置く。腕に土色の回路光が走ると、泥が水を吐き、締まり、車輪の下だけが平らな路盤になった。村人五人なら半刻かかる仕事が、三呼吸だった。
これが、耕導。回路を持つ者が国土を養うという、この国の当たり前だ。便利で、速くて、俺にはできない。だからこそ、壊れた道具を直すだけの俺が、この実りを作ったという数字は、彼らの常識に合わないのだろう。
歳は二十代半ば。豊穣の御子というから、豊かで華やかな人を勝手に想像していたが、違った。日に焼けた顔。歩き方に、農作業をする人間の重心。そして、ひどく疲れて見えた。旅の疲れとは違う、もっと底のほうの疲れ方だった。
「豊穣の御子、エレン様である! 一同、拝礼!」
耕導士の声で、村人が一斉に膝をついた。フィオナさんは膝をつく前から既に半泣きだった(後で聞いたら「司祭見習いの任地に御子が来るのは、王宮に王様が来るようなものです」とのことだった。例えが逆な気もするが、気持ちは分かった)。
「楽にしてください。忍びの巡遊です。……仰々しくして、ごめんなさい」
御子は、そう言って笑った。気取りのない、いい笑い方だった。
*
巡遊の目的は、噂の検分だった。
「北辺の収穫の報告を見ました。……この村の実り、教区の帳簿の上で、輝いていましたよ。凶作続きの北辺で、ここだけ」
つまり、リエラの帳簿術でも隠しきれない部分——収穫高そのもの——が、豊穣の御子の目に留まったのだ。討伐の数字は教会が見て、収穫の数字は御子が見る。この世界の数字は、どこまでも誰かに見られている。
エレン様は、畑を見たいと言った。
案内する道すがら、彼女は村をよく見た。ピンとも巡察官とも違う見方だった。屋根でも井戸でもなく、彼女が見るのは——土と、作物と、それを世話する人間の手だった。年寄りの指の節を見て、ハンナさんの前掛けの土汚れを見て、そのたびに、少しずつ、表情が和らいでいった。
畑に着くと、彼女は畝の間にしゃがみ、あろうことか素手で土を掬った。護衛の耕導士が何か言いかけて、慣れた様子で口を噤んだ。いつものことらしい。
御子は土を握り、匂いを嗅ぎ、指の間で崩した。
長い、長い検分だった。
やがて彼女は立ち上がり、土を払いもせず、呆然と呟いた。
「……この土は、祝福されている」
「恐れ入ります。土起こしを頑張りまして」
「いいえ」
御子は、首を振った。ゆっくりと。
「頑張って、どうにかなる土じゃない。これは祝福です。私は豊穣の御子です。祝福なら、誰よりも知っている。……でも」
彼女は、手の中の土を見つめた。
「これは、私の神様の祝福じゃない。テラ様の手触りじゃ、ない。もっと……もっと古くて、深くて、静かな——私の知らない、何か」
風が、畑を渡った。
北から吹く風だった。哭原の方角から。祠の方角から。村の誰も気に留めない、いつもの風だ。だが御子はその風に、はっと顔を上げ——
——そして、俺と、目が合った。




