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第34話「削られた名前」

長い沈黙のあと、ヴェルクは言った。


「……読んで、やろうか」


「読めるのか」


「読める。……わし以外に、もう読める者もおらんじゃろうがな」


人形は俺の肩から作業台に降り、碑文を見上げた。そして、ゆっくりと、声に出して読み始めた。しゃがれた声が、千年前の言葉を、今の言葉に置き換えていく。


「『この工房は、街道三十七号保守区の詰め所として、〇〇〇〇の御世に建てられた』——〇〇のところは、削られとる」


「『働く者たちよ、道を敬え。道は物を運び、物は暮らしを運び、暮らしは〇〇を運ぶ』——ここも、削られとる」


「『この工房の建立を監督したのは、〇〇〇の直弟子にして、当代の——』」


そこで、ヴェルクの声が、止まった。


「……当代の?」


「————」


「ヴェルク」


「『当代の、神匠』」


——凍った。


しんしょう。その音を、俺は知っている。十八年間で二度しか聞いていないのに、忘れるはずがない。俺の眼の名前だ。(ほこら)で、契約の夜に、こいつが言った。《神匠の眼》と呼ばれたものじゃ、と。


昔の言葉での、偉い職人の言い回しじゃな、と。


「……ヴェルク」


自分の声が、少し遠くに聞こえた。


「これ、位の名前なのか。役職の。碑文に刻むような」


「…………」


「俺の眼の名前は、それから取ったのか。それとも——その位の名前が、俺の眼から取られてるのか」


我ながら、変な聞き方だった。だが、そうとしか聞けなかった。千年前の碑文に刻まれた言葉が、俺の中の力の名前と同じ。偶然なら、偶然でいい。でも、この碑文は名前という名前を全部削られていて、その中で「神匠」の二文字だけが、削られずに残っている——まるで、名前ではなく「役職」だから見逃された、みたいに。


削られたのは、誰かの名前。


残ったのは、位の名前。


じゃあ、俺の持っているこの眼は——誰の、何なんだ。


「神匠って、何だ」


聞いた。契約の夜と、同じ質問を。


ヴェルクは、長いこと黙っていた。角灯の火が、じじ、と鳴った。やがて人形は、あの夜と、寸分違わぬ答えを返した。


「……昔の、偉い職人の位じゃ」


「それだけか」


「今はな」


今は。


嘘は言わない神様は、今日も、全部は言わなかった。だが今夜初めて、俺は「全部」の輪郭に、指先が触れた気がした。この村の地下には、名前を削られた誰かの工房があって、俺の眼には、削られなかった位の名前がついていて、俺の肩の上には、千年前の油の匂いを懐かしがる神様がいる。


繋がっていないはずが、なかった。



帰り際、俺は作りかけの歯車の連なりを、そっと布で覆った。


作業台に置いたままの仕事は、埃を被せておくものじゃない。いつか、続きをやる誰かのために。……そういう手つきを、ヴェルクがじっと見ていたことに、俺は気づかなかった。


入口では、ミナが膝にポポを乗せたまま、船を漕いでいた。


「おい、見張り。敵は」


「……来てない。ふん」


寝ていたくせに、である。俺はちょろい相棒を背負って、階段を上がった。地上の夜気は冷たくて、空には()が、いつも通りに架かっていた。


いつも通りに見えるものが、今夜は少しだけ、違って見えた。

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