↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/56

第31話「幕間・聖都の帳面」

聖都ソリアの大書庫は、音のない街である。


書架の谷が地下三層まで続き、大陸五国のあらゆる記録の写しが、ここに眠る。出生。鑑定。洗礼。納税。討伐。死亡。人ひとりの一生は、ここでは羊皮紙にして約四十枚。それが、何百万人ぶん。


その谷底のような閲覧室に、男がひとり、座っていた。


歳は四十半ば。灰色の詰襟。審問官の徽章(きしょう)。机の上には帳面の山と、冷めた茶が一杯。男——コルヴォは、山の中の一冊に、もう半刻も目を通していた。


北方教区、年次巡察報告。


彼の仕事は、審問ではない。少なくとも、始まりは違う。彼の仕事は「読む」ことだ。大陸中から集まる帳面の数字を読み、数字と数字の間の、あるべきでない「ずれ」を見つける。人は嘘をつく。だが数字は、嘘をつくとき、必ず歪む。彼はその歪みを読む男だった。


「……ふむ」


コルヴォは、頁の隅の一行に、指を置いた。


北方辺境、某狩人組合。聖務報奨の申請額、前年比——九割減。


一つの数字だけなら、意味はない。豊猟の年もあれば、狩人が減る年もある。だが彼の頭の中には、常に他の帳面が開いている。同教区の魔物出没の報告数:横ばい。近隣組合の報奨申請:横ばい。つまり、魔物は減っていないのに、その一帯だけ、討伐が消えた。


代わりに増えた数字がある。同組合の「護衛業」収入。ほう、とコルヴォは思う。商売替えか。筋は通る。帳面の上では、完璧に。


——完璧に筋の通る帳面ほど、彼は長く見る癖があった。



次の帳面は、押収品の目録だった。


(ふもと)の町の金物市で、研ぎ師たちの間で騒ぎになった鎌が一本、参考品として教区に納められていた。目録の備考欄に、検分した司祭の走り書きがある。


聖認型(せいにんかた)に適合。逸脱なし。しかし——』


しかし、の後が、興味深かった。


『刃付けの精度が型の許容の中央に、寸分違わず収まっている。逸脱がないことが、むしろ異常。人の手は、こうは揃わない』


コルヴォは、その一行を三度読んだ。


型を超える仕事は、異端の兆候である。それは誰でも知っている。だが、この司祭の目は良い。型のど真ん中に完璧に収まり続ける仕事もまた、同じくらい、人の手から遠いのだ。


産地の記載。北方辺境、行商人経由。仕入れ元——リンデ村。


「……リンデ」


コルヴォは、記憶の帳面をめくった。出てこない。彼の頭の中の大陸地図——教区、街道、町、村、砦、その配置をほぼ(そら)んじている自負がある——のどこにも、その名前がなかった。


彼は立ち上がり、書架の谷を三つ越えて、北方教区の巡察記録の棚から、今年の綴りを抜いた。あった。末尾に近い頁。


『リンデ村。特記なし。ただし修理の腕は良し』


特記なし。


コルヴォは、冷めた茶を一口含んで、思案した。討伐が消えた土地。型の中央に収まりすぎる鎌。そして、巡察官をして「特記なし」と言わしめた村。


……いや。まだ何もない。数字が三つ、揃っただけだ。偶然は三つまで重なる。それが彼の経験則であり、四つ目から先が、彼の仕事だった。


それでも彼は、手元の白い帳面——彼が「気になりの帳面」と呼ぶ、私的な備忘の一冊を開き、几帳面な字で、一行を書き足した。


『北辺・リンデ村。数字が静かすぎる。要・継続観察』


書き終えて、ふと、手が止まる。


「リンデ……どこだ、それは」


閲覧室の壁の大陸図を、彼は見上げた。テラ王国の北端。哭原(なきはら)の縁。地図のその一角は、灰色にぼかされたまま——村の印ひとつ、打たれていなかった。


地図に、載っていない。


コルヴォは席に戻り、茶を淹れ直した。今度は、冷める前に飲むつもりだった。長い仕事になる予感のする夜は、いつも、そうしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。