第30話「見送りの後」
その晩は、自然発生的に、宴になった。
祭りのような派手さはない。ただ、詰め所に村の大人が集まって、ハンナさんが鍋を出し、誰かが酒瓶を持ち込んで、「終わったなあ」を肴に飲む。そういう宴だ。護衛の仕事帰りのドガの組も、途中から混ざった。
「しっかし、あんたらもよくやるぜ」
ドガは酒を呷りながら、にやにやしていた。
「巡察官サマの馬車を直して看板もらうたぁな。……とぼけた顔して、領主様よ、あんた相当の狸だよ」
「偶然です。車軸が割れたのは」
「そうかい。ま、そういうことにしとこう」
崖の目が、笑っていた。この男の前では、大抵のことは「そういうこと」にしてもらっている。借りが積み上がる一方である。
*
夜が更けて、酒が回って、話が怪談じみてきた頃。
「——哭原の話、してやろうか」
ドガが、ふいに言った。
座が、少しだけ静かになった。この土地の人間にとって、哭原の話は、怪談の中でも別格の棚にある。
「もう、ずっと昔の話だ。聖都の学者先生の隊が、哭原の奥に入った。護衛の狩人を山ほど雇って、記録を取りに行ったんだと。魔物の縄張りのど真ん中へな。……で、どうなったと思う」
「全滅、ですか」とピンが聞いた。少年は宴の隅で、果実水の椀を抱えて聞いていた。
「一人だけ、帰った」
ドガは指を一本、立てた。
「たった一人。装備も荷も全部捨てて、着の身着のままで、緩衝帯まで這って出てきた。狩人がその男を拾った時にゃ、もう、まともじゃなかった。目の焦点が合わねえ。誰の言葉も届かねえ。ただな——死ぬまで、同じ言葉だけ、繰り返してたんだと」
ドガは、酒をひとくち飲んで、間を置いた。狩人は、話の間の取り方を知っている。
「——『あれは、泣いている』」
火が、爆ぜた。
「奥で何を見たのか、結局、誰にも分からずじまいだ。学者先生の記録も残っちゃいねえ。ただ、その話が広まってから、あの原は『哭原』と呼ばれるようになった……って話だ。眉唾だと思うだろ? だがな、うちの親父も、その親父も、夜の緩衝帯であの「声」を聞いてる。風の音だって言うやつは、あの原の近くで寝たことのねえやつだけだ」
座が、しんとした。
マルタ婆さんだけが、静かに酒を舐めて、それから、誰にともなく言った。
「……泣いとるんだよ。昔っから、そう言っとろうに」
俺は、膝の上の拳を、そっと握った。
魔物は、泣いている。守るように縄張りを作り、治してやれば礼をして、村を襲わず——そして、原の真ん中に向かって、通夜の声で鳴く。
あの原の真ん中に、何があるんだ。
視線を感じて顔を上げると、宴の隅で、ピンがじっと俺を見ていた。目が合うと、少年はいつもの屈託ない笑顔に戻って、果実水を掲げてみせた。
*
翌朝、次の隊商が来て、ピンは発つことになった。
「世話になりました。飯、おいしかったです。特に麦粥」
「達者でな。……次はどこへ」
「風の吹くまま。——あ、でも」
少年は、荷馬車に飛び乗りながら、振り返った。
「面白い村だね、ここ。……また来るよ」
敬語が、最後だけ、外れた。それが妙に、様になっていた。
隊商が動き出す。村の皆が手を振る。ミナだけが腕を組んで「ふん」をしていた——が、その足元でポポが跳ねて見送っていたから、実質見送りである。
と。
塀の外れに、銀色が見えた。
シルヴァだった。
まだ、俺は「済み」の合図を出していない。療治場は閉めたままだ。あの賢い銀狼が、それを破って縄張りの奥から出てくるなど、初めてのことだった。それなのに——シルヴァは、遠ざかる荷馬車を、正確には、荷台の上の小さな背中を、じっと見ていた。そして。
深々と、頭を垂れた。
あの晩、俺にしたのと、同じ礼を。
「……おい、シルヴァ。あれは、ただの」
旅の子供だろう、と言いかけた俺の言葉は、風に流れて、誰にも届かなかった。
*
——街道を、荷馬車は行く。
御者も、隊商の親方も、気づかない。荷台の隅に座った少年の周りだけ、風が、じゃれつく子犬のように渦を巻いていることに。
少年は目を閉じて、風に頬を撫でさせながら、小さく笑った。
「……うん。すっごく、面白い村」
風だけが、その呟きを聞いた。
——メルの御子は、今日も自由だった。




