第28話「巡察(前)」
巡察官は、初老の痩せた男だった。
教会の灰色の外套。旅の埃を払う仕草まで手順書どおりのような、几帳面な男だ。値踏みの目——ではなかった。あれは、照合の目だ。目の前のものを、頭の中の「あるべき記録」と突き合わせていく目。前世の品質監査で、嫌というほど見た種類の目だった。
「教区巡察官である。……ふむ。貴殿が、届け出の新領主か」
「アルト・ハーヴェルです。遠路、ご苦労さまです」
「堅苦しい挨拶は結構。予定通り進める。まず礼拝堂、次に記録、最後に村内を一巡する」
言葉数の少ない、仕事の早い男だった。ある意味、一番怖い型である。
*
礼拝堂の検分は、フィオナさんの独壇場だった。
「礼拝堂の修繕について、事後申請様式八号の二、こちらに。修繕範囲の見取り図と、資材の出所の記録も添付してあります」
「……ほう。八号の二を、辺境で」
「奉仕記録はこちら。礼拝の出席簿、祭具の管理台帳、説教の題目控え。それから前任者の引き継ぎの欠落分について、着任時に作成した補遺がこちらです」
書類の束が、次々と巡察官の前に積まれていく。巡察官は一枚一枚めくり、めくるたびに、眉の角度がわずかに緩んでいった。几帳面な人間は、几帳面な書類に弱い。フィオナさんの生真面目さは、今日この日のためにあったのかと思うほど、完璧な盾だった。
「……見習いの身で、よくここまで」
「恐縮です。手続きは、手続きですので」
俺は後ろで、深く頷きそうになるのを堪えた。様式八号を食らった側としては、複雑な気分だが。
*
村の一巡は、ヒヤリの連続だった。
巡察官は、よく見た。直した屋根を見上げ(「新しいな」「歴代領主の未修繕分を、まとめて」「ふむ」)、井戸の水を一口飲み——止まった。
「……この水は」
「山の水脈です。石組みを直したら、良い筋が出まして」
「ふむ」
滑車が、絶妙に耳障りな音で鳴いた。仕込んでおいた甲斐があった。巡察官の関心が、水の味から「手入れの粗」へ流れていくのが分かった。
工房では、ガンツの爺さんが「そこそこの出来」の鎌を叩いていた。巡察官は軒先の品を検分し、聖認型の型板と照合し、頷いた。爺さんの顔は能面だったが、あの能面の下で職人の魂が血を流しているのを、俺だけが知っていた。
危なかったのは、二度。
一度目は、ミナだ。巡察官が村の子供に目を留めて、「そこの娘。この村の暮らしはどうか」と聞いた。全員が息を呑んだ。ミナは巡察官をじっと見上げて——完璧な、退屈しきった子供の声で言った。
「べつに。……あ、でも兎の帽子、あたしが編んだの。見る?」
「……いや、結構」
大人は、子供の自慢話から逃げる。それを計算ずくでやったのだとしたら、恐るべき十歳である(あとで聞いたら「ほんとに見せたかっただけ」とのことだった。結果オーライという言葉を、俺は噛みしめた)。
二度目は、俺自身だった。巡察官の外套の留め金が、歩くたび、緩んでいた。あと百歩で落ちる。視えてしまった。直したい。指先が、疼く。落ちれば拾って渡すだけの話なのに、俺の中の何かが「今、直せば三秒だ」と囁き続ける。
俺は、拳を握って、耐えた。
修理衝動に人生で初めて勝った瞬間だった。誰も褒めてくれないのが残念である。
*
一巡の終わり。日が傾き始めた頃。
巡察官は帳面に何かを書き付けながら、村はずれへ向かって歩いていた。その足が、ふと、止まった。
視線の先。
夕陽を背にして、傾いだ石積みの祠が、立っていた。
「……あれは?」




