第26話「秘密の重さ」
「——夜分に、お疲れさまです」
フィオナさんは、そう言った。
角灯を提げたまま、いつもの生真面目な顔で。俺は自分の心臓の音を聞きながら、どこから聞かれたのかを、必死に逆算していた。「俺と、同じだ」からか。「聞こえる」からか。それとも、全部か。
「昼間の納屋は、大変でしたね。お二人とも、お怪我がなくて何よりです」
「……ええ」
「梁の、木口の割れ」
フィオナさんは、そこで一拍、置いた。
「領主様が事前に気づいておられたこと、皆が感謝していました。……ですが、次からは司祭にもお報せください。危険の告知は、礼拝堂の掲示の役目でもありますので」
それだけ言って、彼女は会釈し、見回りの続きへ歩いていった。角灯の明かりが、礼拝堂のほうへ遠ざかっていく。
聞かれていなかった——のか。
あるいは。
角を曲がる寸前、フィオナさんは一度だけ立ち止まった。振り向きはしなかった。ただ、少しだけ首を傾けて、夜空の環を見上げてから、行った。あの間が何だったのか、俺には分からなかった。保留にしたつもりの問いが、今夜は、いつまでも胸元に引っかかっていた。
*
翌日から、俺はミナに「もう一つの技術」を教え始めた。
直す技術ではない。隠す技術だ。
「いいか。視えたこと、聞こえたことは、そのまま口にするな。必ず、誰でも分かる理由に言い換える」
「うん」
「『泣いてる』は駄目だ。『釘の頭が浮いてる』。『悲鳴』も駄目だ。『梁の色が悪い』『踏んだ時の音が濁ってた』。……誰かに気づかれそうになったら、俺の名前を出せ。アルトに言われて見てた、で通せ」
「アルトのせいにするの?」
「そうだ。俺は領主で、修理屋だ。物の傷みに詳しくて当たり前の身分ってのを、俺はもう持ってる。お前はまだ持ってない。だから、当分は俺の看板を使え」
ミナは真剣に頷いて、それから、ふと聞いた。
「……アルトは、誰の看板、使ってたの?」
不意打ちだった。
「……誰のも」
「なかったの?」
「なかった」
ミナは、しばらく黙った。十歳の頭の中で、それがどういう意味か、ゆっくり組み上がっていくのが分かった。看板もなく、言い換えも教わらず、六歳から一人で隠してきた、ということの意味が。
「……へたくそ」
彼女は言った。声が、少し湿っていた。
「アルトの隠し方、へたくそ。あたしが見ても分かったもん。だから——だから、あたしが見ててあげる。アルトが、へんなこと言いそうになったら、あたしが先に、ふつうの言い方、してあげる」
弟子に守られる師匠が、どこの世界にいる。
いや——ここにいる。俺は笑ってしまって、それから、笑いながら、少しだけ目の奥が熱くなった。
「頼もしいな、おい」
「ふん」
最後にひとつだけ、教えた。一番大事なやつだ。
「ミナ。隠すのはな、俺たちが悪いからじゃない。恥ずかしいからでもない。生きるためだ。……お前は、何も悪くない。それだけは、間違えるな」
七歳の俺に、誰かが言ってくれるはずだった言葉。十八年遅れで、ようやく持ち主に届いた。宛先は違ったが、多分、これで良かったのだと思う。
*
平和は、五日で終わった。
麓の町から、教会の使いが書状を運んできた。フィオナさん宛の公文書である。彼女はそれを開封し、読み、みるみる姿勢を正して——それから、俺のところへ走ってきた。
「領主様! じゅ、巡察です!」
「巡察?」
「年に一度の教区巡察! 十日後、当村に巡察官がいらっしゃいます! 礼拝堂の検分、奉仕記録の監査、それから——村内の信仰状況の、視察!」
書状を握るフィオナさんの後ろで、村の空気が、すっと冷えるのが分かった。
魔物の療治場。喋る人形の祠。物の声が聞こえる領主と弟子。
——この村、隠すもの、多すぎないか?




