第19話「環の夜」
「明後日は、環の夜です」
フィオナさんが礼拝堂の掃除の手を止めて言った時、俺は一瞬、何の話か分からなかった。
「知りませんか? 年に一度、環が最も明るく輝く夜です。教会の定める、悔い改めの夜」
「ああ……実家では、灯りを消して静かにしてろ、とだけ」
「概ね正しい作法です」と彼女は生真面目に頷いた。「その夜、環は昼のように輝きます。かつて五大神が狂神を討った、その戦いの傷が、一年で最も濃く空に浮かぶ夜。人は灯りを消し、驕りを悔い、静かに過ごす——祭りの逆です。騒いではいけない夜、ですね」
村の年寄りたちは慣れたものだった。当日の夕方には、どの家も竈の火を落とし、雨戸を半分閉て、村は日暮れ前から、しんと静まった。
*
環の夜が、来た。
夜と呼ぶのが憚られるほど、明るかった。
空を横切る破片の帯が、一片一片まではっきりと輝いて、廃村を青白い昼に変えていた。壊れた月の破片。千年前の、天罰の証。息を呑むほど綺麗で——そして、見ていると、胸の奥がぎしぎしと軋んだ。
いつもの、あれだ。壊れたものが、直されないまま、そこにある。それも千年。空一面に。
「壮観、ですね」
隣で、見回りに出てきたフィオナさんが小声で言った。悔い改めの夜も、司祭は見回りをするらしい。
「フィオナさんは、あれを見て、どう思います」
「畏れ多い、と」彼女は模範解答をして、それから少しだけ間を置いた。「……あとは、その。綺麗だと思ってしまって、毎年、少し反省します。戒めの傷を綺麗と思うのは、不敬ですから」
「俺は『直したい』と思ってしまうので、多分もっと不敬です」
「なおしたい……?」
フィオナさんは俺を見て、目を丸くして、それからなぜか、笑いを噛み殺した。
「領主様は、本当に、修理のことしか頭にないのですね」
概ね正しい人物評だった。
*
深夜。村が寝静まってから、俺は祠に寄った。
ヴェルクは、祠の屋根の上にいた。
膝丈の人形が、割れた屋根石の上にちょこんと座って、空を見上げていた。真鍮の目に、環の光が映り込んでいた。
「……珍しいな。外に出てるのは」
「今夜だけは、の」
それきり、ヴェルクは何も言わなかった。
軽口もなく、講釈もなく、ただ空を見ていた。俺は隣の石塀に腰掛けて、同じ空を見た。長い、長い沈黙だった。ただ、不思議と気詰まりではなかった。工房で職人二人が別々の作業をしている時の、あの沈黙に似ていた。
一度だけ、ヴェルクが呟いた。
「坊主。……あれはな」
「ん?」
「————いや」
神様は、首を振った。
「なんでもない。冷える。もう寝ろ」
嘘は言わない神様の「なんでもない」は、なんでもなくない。だが俺は藪の管理を徹底する男なので、黙って祠の戸を閉めてやり、寝に帰った。
【幕間・眠り丘】
——同じ夜。テラ王国の王都グラナの近郊に、丘がある。
苔と草に覆われた、なだらかな丘。地元の民が「眠り丘」と呼ぶそれが、実は丘ではないと知る者は、もうほとんど生きていない。
環の夜。丘は、動いた。
苔の下で、山のような瞼が、静かに開いた。緑柱石の色をした巨大な目が、ただ一年に一度のこの夜だけ、空を見上げる。
千年、欠かさず。
砕けた月を。あの夜、届かなかったものの、痕を。
丘はやがて目を閉じ、ただの丘に戻る。誰にも気づかれぬまま。——今年も。
*
翌朝。
環の夜明けの村に、ミナの叫び声が響いた。
「アルト!! 畑! 畑から、へんなの出た!!」
駆けつけると、開墾中の畑の隅、鍬を入れたばかりの土の下から——平らな石が、覗いていた。
一枚ではない。土を払うと、隣にもう一枚。そのまた隣にも。切り揃えられた石が、行儀よく並んで、地面の下を、まっすぐどこかへ続いている。




