第2話「リンデ村十七人」
街道を北へ五日。道は日に日に痩せていき、最後の半日はもう、道と呼ぶのをためらう何かだった。
「兄さん、ここまでだ」
御者の老人が馬車を停めたのは、傾いた道標の前だった。板には何か彫ってあったらしいが、風雨に舐められて読めない。その先は馬車の轍もない、草に呑まれかけた小径だ。
「リンデはこの先だがね、儂の馬車じゃ軸をやっちまう」
あんたが直してくれた軸を、と老人は付け足して、少し笑った。別れ際、老人は懐から干し無花果の包みを押し付けてきた。車軸の礼だと言う。受け取り方が分からなくて、俺は多分、変な顔をしたと思う。
歩き出して一時間で、村が見えた。
最初に思ったことを正直に言うと——「これは……実家のやつら、俺を殺す気だな?」だった。体のいい追放とは聞いていたが、これは体すら良くない。
丘のふもとに、家が十二、三軒。そのうち屋根がまともに残っているのは半分。石塀は崩れ、畑だったらしい区画は膝丈の草に還り、村の真ん中の井戸には板が打ち付けてある。使われていない井戸ほど不吉なものはない。水が死んだ村は、村ごと死ぬ。
そして村の向こう——北の地平に、それはあった。
灰色の野。哭原。地図でべったり塗り潰されていた領域が、実物として横たわっている。距離はあるはずなのに、妙に「近い」と感じた。風向きのせいか、時々、遠くで誰かがすすり泣くような音がした。
「風の音だ」
口に出して、自分に言い聞かせた。
*
村の入り口——というか、塀の崩れ目——に、婆さんが一人、立っていた。
腰は曲がっているのに、立ち姿がやけに据わっている。歳は七十をいくつも越えているだろうに、目だけが若かった。値踏みする目だ。前世で散々見た。工場に来た新しい設備業者を、古参のパートのおばちゃんが見る目である。
「あんたが、今度の」
「アルト・ハーヴェルです。このたび、リンデ辺境領の領主を拝命——」
「ふうん」
婆さんは俺の口上を最後まで聞かなかった。上から下まで、二往復。
「今度のは、何日もつかね」
「……何日、というと」
「先代は三月。その前は十一日。その前のは、村を見て馬車から降りんかった」
なるほど、歴代の記録がある訳だ。俺は少し考えて、正直に答えることにした。
「未定です。ただ、帰る場所は、もうないので」
婆さんの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「マルタだよ。長生きしてるだけの婆だ。……ついてきな、銀の坊」
銀の坊。俺の髪を見てのあだ名らしい。領主に対する呼び方として正しいのかは知らないが、「無録様」よりはずっといい。
*
マルタ婆さんの案内は簡潔だった。
「井戸。死んでる。水は裏の沢まで汲みに行く。片道半刻」
「領主館。あんたの家だ。屋根に穴が三つ。雨の日は寝る場所を選びな」
「畑。見ての通り。塩と鉄が高くてね、鍬が折れたら、それでおしまいさ」
実家の畑なら、カイル兄が土の回路を通せば、固い畝も一息でほぐれた。俺には、それができない。火を起こすにも、水を引くにも、貴族の子なら最初に考えるはずの魔法が、俺の手札には一枚もない。
だから、折れた鍬を直す。水が遠いなら、水路の勾配を測る。前世でも、最新設備を買えない工場ほど、ある物を止めずに使う知恵が要った。ないものを数えるより、ある道具の状態を見たほうが早い。
歩きながら、村人たちとすれ違った。
薪を割っていた大柄な女は、俺を見ると手を止めた。歳は三十くらい。立ち方で分かる。あれは兵隊の立ち方だ。重心が一度も死んでいない。彼女は会釈もせず、ただ俺の全身を——武装の有無を——確認して、薪割りに戻った。壁に立てかけた得物は、大剣だった。なんで辺境の廃村に大剣があるんだ。
工房らしき小屋の前では、白髪の爺さんが金物を叩いていた。マルタ婆さんが「ガンツ。挨拶しな」と声をかけたが、爺さんは顔も上げなかった。ただ、火床の温度と、鎚の入れ方と、それから仕事を終えた道具を布で拭って棚に置く時の——礼をするような、一瞬の間。それだけで分かった。あの爺さんは、本物だ。
納屋の陰からは、小さい目がずっとこっちを見ていた。十歳くらいの女の子だ。目が合うと、ぱっと隠れた。そしてまた、見る。値踏みの目、二人目。この村の住人は目つきの教育が行き届いている。
「全部で十六人。あんたを入れて十七だ」とマルタ婆さんは言った。「年寄りが八人。訳ありが六人。子供が二人。……訳の中身は、聞かないのがこの村の流儀だよ」
「わかりました。じゃあ俺の訳も、聞かないでもらえると助かります」
マルタ婆さんは、初めてちょっとだけ笑った。
*
夕方、沢まで水汲みに行った。片道半刻は本当だった。
汲んできた水を、領主館の欠けた椀で飲んで——俺は、動きを止めた。
「……うまい」
うまいのだ。ただの沢の水が。前世で飲んだどのミネラルウォーターより、角がなくて、甘い。疲れているせいか? いや、それにしても。
水質は土で決まる。土が良ければ水が良い。だがこの土地は、千年呪われた荒れ地の縁のはずで——。
分からないことを数えるより、屋根の穴を数えるほうが先だ。俺は椀を置いた。今夜の寝床は、東の隅だ。
*
夜。
寝付けなくて、外に出た。空には環。欠けた月がその真ん中に浮かんで、廃村を青白く照らしている。
村はずれに、小さな影があった。石積みの、祠だ。案内では飛ばされた場所。屋根は割れ、扉は傾いで、誰が祀られているのかも分からない。
見るともなしに見ていて、気づいた。
視線だ。
祠の、傾いだ扉の奥から。誰かが、こっちを見ている。




