第1話「無録様の栄転」
前世の俺は、機械を直して死んだ。
今世の俺は、何も持たずに生まれた——回路も、才も、居場所も。
だから「辺境の領主にしてやる」と言われたとき、真っ先に考えたのは屋根の修理のことだった。我ながらどうかしていると思う。でも、捨てられる人間の頭に浮かぶことなんて、案外そんなものだ。
「アルト・ハーヴェル。当家は貴殿を、リンデ辺境領の領主に叙する」
父の声が、広間の高い天井に反響した。「貴殿」ときた。十八年間、同じ屋敷で暮らした息子への言葉じゃない。もう家の外の人間として扱います、という宣言だ。
広間には家族が揃っていた。壇上に父。その斜め後ろに長兄のロイド。壁際に次兄のカイル。使用人が三人、目を伏せて立っている。
母だけがいない。六年前に死んだからだ。
「リンデ辺境領は、当家の由緒ある封土である。心して治めよ」
由緒ある封土。俺は頭の中で、その言葉を分解して並べ直した。前世からの癖だ。故障報告の美辞麗句を剥がして、実際に壊れている箇所を特定する作業。
「由緒ある」——歴代の領主が全員逃げ出した、の意。
「封土」——税収がゼロなので誰も欲しがらない土地、の意。
「心して治めよ」——二度と帰ってくるな、の意。
なるほど、症状はよく分かった。壊れているのは領地じゃなくて、この家の方だ。もっとも、それは六歳のときから分かっていたことだけれど。
「……謹んで、拝命いたします」
俺は膝をついて、型どおりの礼をした。型どおり、というのは大事だ。この世界では何事も、決められた型から外れないことが美徳とされている。祈りも、仕事も、家族の縁の切り方も。
顔を上げたとき、カイルと目が合った。
「良かったな、無録様。栄転だ」
無録様。
六歳の鑑定の日から、十二年間呼ばれ続けた渾名だった。この国では、六歳になると教会で鑑定を受ける。体の中にマナの回路があるか。あるなら、どれほど太いか。貴族の子にとって、それは人生のすべてを決める儀式だ。
俺の鑑定結果は、単純明快だった。
——回路なし。
才ある者の名簿——神録に、俺の名前が載ることは永遠にない。だから、無録。省略しないなら「神々に何も与えられなかった者」。貴族の家に生まれた身としては、これはもう死刑判決に近い。実際、あの日から家の中での俺は、死んだ人間みたいなものだった。
「ええ、栄転です。兄上」
俺は笑って返した。カイルの眉がぴくりと動く。こいつは俺が言い返すと、いつも一瞬だけ怯んだような顔をする。昔から不思議だったが、追及したことはない。藪をつついて出てくるものに、ろくなものがあった試しはない。
ロイドは何も言わなかった。この長兄は、俺を虐げたことは一度もない。庇ったことも、一度もない。
それで、儀式はおしまいだった。追放にかかった時間は、たったの五分。前世の会社なら、退職手続きだけで半日はかかったのにな、と思った。
*
自室に戻って、荷造りをした。
鞄ひとつで足りた。着替えが少し。工具がひと揃い——これは屋敷の工房から、長年かけて少しずつ「救出」してきたものだ。手入れのされていない道具を見ると、どうにも我慢ができない。錆びた鑿を研いでいるうちに、いつの間にか俺の道具箱に住み着いていた。彼らに罪はない。
それから、懐中時計をひとつ。
母の形見だ。とうに動かなくなっている。蓋の裏に小さな傷があって、文字盤は四時十二分を指したまま、六年間止まっている。
直せるのに、直していない。
理由は自分でもよく分からない。ただ、これを直してしまったら、母に関する「やり残したこと」が世界からなくなってしまう気がして、俺はこの時計にだけは手をつけずにきた。
——あなたの手は、壊すためじゃなく、直すための手ね。
母は一度だけ、そう言ったことがある。俺が納屋の裏でこっそり、壊れた鳥籠を組み直していたときだ。誰にも見せてはいけない手先の器用さを、母にだけは見られてしまった。叱られると思って身構えた俺の頭に、母はただ、手のひらを置いた。
あの言葉の意味を、俺はまだ測りかねている。ただの慰めだったのか。それとも母は、何かを知っていたのか。
答えの出ない問いは、道具箱の底に仕舞っておくに限る。俺は時計を胸元に収めて、部屋を出た。十八年暮らした部屋に、振り返るほどの未練はなかった。
*
荷馬車が門を出るとき、見送りは誰もいなかった。
いや——厩の脇で、年寄りの馬丁がひとり、深々と頭を下げていた。去年の冬、あの人の腰痛用に椅子の高さを直してやったことがある。それだけの縁だ。それだけの縁が、この屋敷で一番あたたかい。
日が暮れて、空に環がかかった。
砕けた月の破片が、夜空に淡く光る帯を描いている。教会の教えでは、あれは戒めの環。かつて世界を喰らおうとした狂神を、五大神が討ち滅ぼした戦いの傷跡。驕る者への、永遠の警告。
前世の空には、あんなものはなかった。月はひとつで、丸くて、たまに欠けるだけだった。転生して十八年経つが、あの環だけは未だに見慣れない。綺麗だと思う。同時に、なぜだか少しだけ、胸の奥が軋む。壊れたものが直されないまま、千年も放置されている——そんなふうに見えるからかもしれない。
職業病だな、と思う。
前世の俺——真壁修、四十二歳、生産技術部設備保全課——は、そういう人間だった。止まった機械を動かす仕事。派手さはないが、誰かがやらないと工場が止まる。台風の夜、停電した病院の非常用発電機を直しに行く途中で、土砂崩れに巻き込まれて死んだ。我ながら、実に保全屋らしい死に方だったと思う。
直せるものは、直す。
それだけを信条に生きて、死んで、こんな世界に生まれ直した。回路がないと言われた。無録と呼ばれた。でも、あの信条だけは、どうやら魂に焼き付いていたらしい。
がた、と荷馬車が嫌な音を立てた。
——右前輪。車軸の受け金具。摩耗で遊びが出ている。あと半日で楔が抜ける。
視える。壊れかけた物は、いつだってこうだ。頭の中に、あるべき形とずれた形が、図面のように並んで視える。誰にも言ったことのない、俺の秘密。
「爺さん、ちょっと停めてくれ。……石を噛んでるみたいだ」
嘘も方便だ。車輪の陰にしゃがみ込み、工具袋から鎚と当て木を出して、三度叩く。遊びが消える。ついでに軋んでいた留め具も締め直す。手が勝手に動くのだから仕方がない。
「兄さん、あんた……今、何をした?」
御者の老人が、目を丸くしてこちらを見ていた。この馬車は三年前から騙し騙し乗ってきた、どこの車大工も匙を投げた代物なのだという。走り出した荷馬車は、絹の上を滑るように静かだった。
「若いのに、大した腕だ。あんた、どこの工房の人だね」
「……ただの、無職の三男です」
これも、まあ、嘘ではない。
「リンデ辺境領、ねえ」
御者台の老人に借りた地図を、月明かりと環の光で照らす。テラ王国の北の端。国境線の手前に、哭原と呼ばれる灰色の領域がべったりと塗られ、その縁に俺の新しい領地があるはずだった。
あるはず、だった。
「……おい、まさか」
俺は地図を裏返し、表に戻し、もう一度北の端を凝視した。
もらった地図に、その村の名前は載っていなかった。




