第16話「弟子入り」
「アルトも、聞こえるの?」
夕闇の中で、十歳の目が、まっすぐ俺を見上げていた。
言ってしまいたい、と思った。聞こえる。視える。俺もずっとそうだった。お前は一人じゃない——喉元まで出かかった言葉を、俺は呑み込んだ。
この国で、その告白は、命のやり取りと同じ重さを持つ。俺が誰かに漏らせば、ミナが危ない。ミナが誰かに漏らせば、俺が危ない。そして十歳の子供に「絶対に漏らすな」を背負わせるのは——七歳で自分に背負わせた俺が言うのだから間違いない——早すぎる。
「……釘が泣くかどうかは、知らん」
だから俺は、修理屋の顔で言った。
「だが、無理な打たれ方をした釘が、板を傷め続けてるのは本当だ。それが分かるなら、直し方も覚えられる。——やってみるか」
ミナは、じっと俺を見た。何かを見透かすような、値踏みの目。それから、こくりと頷いた。
「……うん」
質問は、流された。流してくれた、のかもしれない。十歳は、俺が思うより大人だった。
*
翌日から、ミナは俺の「弟子」になった。
とはいえ教えることは、地味の極みである。初日に渡したのは、道具ではなく布と油だった。
「まず手入れから?」
「まず手入れからだ。道具の状態が分からない奴に、道具は使えない」
錆の浮いた古い鑿を一本、彼女に預けた。研ぐ前に、まず拭く。油を差す。柄のがたつきを確かめる。地味な仕事だが、ミナの手は、二日目にはもう俺の手順を盗んでいた。三日目には、俺が言うより先に、刃こぼれを指で見つけた。
「ここ、欠けてる。……ちいさく」
「よく気づいた。どうして分かった」
「んー……」
ミナは少し考えて、言葉を選んだ。俺の顔色を、窺うように。
「……ひかりかたが、へん、だから」
「そうだ。光り方で分かる。それでいい」
それでいい。視えるとか聞こえるとか、口にしなくていい。光り方が変。座りが悪い。音が濁る——そういう「言っていい言葉」に翻訳する術を、俺はこの子に、少しずつ渡していくことにした。かつて誰も、俺に渡してくれなかったものを。
祠のヴェルクには、後で盛大に茶化された。
「『まず手入れからだ』。ふぉっふぉ、言いよるわ。師匠面が板についとるのう、坊主」
「うるさい」
「よい顔じゃったぞ。……うむ。よい顔じゃった」
二度目は、茶化す声ではなかった。
*
ポポが来たのは、その週の終わりだった。
きっかけは、ミナが村の縁で拾ってきた「怪我した兎」である。抱えられてきたそれを見て、俺は硬直した。兎は兎でも、額に螺旋の小さな角が生えていた。角兎——魔物である。前脚が、例の「捻れた」形で傷んでいた。
「直して」
「ミナ、あのな、それは魔物——」
「直して」
十歳の目には、交渉の余地というものがなかった。ザラがこめかみを押さえ、フィオナさんが遠くで祈りの文句を暗唱し始め、俺は観念して角兎の前脚に触れた。戻れ。捻れが解ける。兎は跳ねた。
そして、逃げなかった。
それどころか、ミナの膝によじ登り、定位置とばかりに丸くなった。ミナは「ポポ」と即座に命名した。名付けの基準は謎である。
「……なあ、それ、野に返さないのか」
「ポポが決める」
ポポは動かなかった。決めたらしい。こうして我が村の住人は、十七人と一羽になった。ヴェルクは「わしの供え物の椀で水を飲んどるぞあやつ」と憤慨していた。
*
その晩、見回りに出て、気づいた。
村の縁——シルヴァが線を引いた、あの見えない境界の外に、気配が増えている。
一つや二つではない。息を潜めた、大小の気配が、点々と。囲まれている、というのとは違う。距離を保って、ただ、そこにいる。まるで——順番待ちの列みたいに。
闇の中に、見慣れた銀色がよぎった。シルヴァが、列の間を、ゆっくりと歩いて回っていた。




