二話|円環の外の少年
入学式の朝から、五回目の春。
あの日と同じように、王都セプティムの空は青く澄んでいる。白い街並みを撫でる風はやわらかく、窓の外では蒼天の塔が陽光を受けて淡く煌めき、雲ひとつない空を支える柱のように、真っ直ぐ伸びていた。
十二歳になったフィオル・ストラティは、窓際の席からその空をぼんやりと眺めていた。
アカデミーの白門を見上げていた幼い子供たちは、あれから少し背が伸びた。声の調子もわずかに変わり、そして少しだけ、世界というものを知った。
正しくは、秩序という名で呼ばれるものを。
放課後になれば皆で石畳を走り、誰が一番強くなるかを言い合って笑っていた日々は、まだ昨日のことみたいに思い出せる。ロイは相変わらず騎士になるんだと胸を張り、レオルルは負けじと声を張り、クロフトは横から茶化し、フィオルとミリオは少し離れたところでそれを見て笑っていた。
そんな時間が、これからもずっと続いていくのだと、フィオルは本気で信じていた。
けれど。
教室に流れる空気は、もうあの頃とは違っている。
誰かが笑うたび、誰かが囁くたび、フィオルの肩は小さく強張った。内容が聞こえなくても分かってしまう。視線の先がどこにあるのか、言葉の刃が誰へ向けられているのか。
もう、分からないふりはできなかった。
「――では、今日の実習の前に、復習を始めるとしよう」
教壇に立つマルクが、黒板を杖で軽く叩いた。
その瞬間、黒板いっぱいに描かれていた巨大な魔法陣が淡く輝き始める。五重の円によって構成された律式。その中心から伸びる五つの紋様の先には、それぞれ聖獣の名が刻まれていた。
「この世界を循環する五元理力は、五聖獣によって調律されている」
マルクの杖先が、順に紋章をなぞっていく。
生徒たちは真剣な目で黒板を見つめていた。
五聖獣。
それはこの世界の誰もが知る神話の名であり、同時に、子供たちが最初に憧れる力の象徴でもある。
「人は生まれながらに、五聖獣いずれかの加護を宿す。そして加護を持つ者だけが、騎士、魔導士として理力を扱う資格を得るのだ」
マルクはそう言って、教室を見渡した。
その言葉を聞きながら、フィオルはそっと視線を落とす。
何度も聞いた説明だった。
何度も、何度も。
それでも聞くたびに、胸の奥がじんわりと痛くなる。
この世界では、加護とは祝福だ。
生まれた瞬間に与えられる、未来への通行証。
それを持たない自分は、いったい何者なのだろう。
「では、本日の実践へ移ろう」
マルクが名簿を開いた。
「呼ばれた者は前へ出て、己の加護の力を示しなさい」
紙をめくる音が、やけに大きく聞こえた。
「レオルル。前へ」
「ふっ。来たか」
静かに立ち上がったレオルルが、堂々と教壇へ向かう。子供らしい丸さを残しながらも、その目は自信に満ちていた。
「ゴーレムの加護よ、円環に巡り、我が律へ応えよ。大地の腕となり、迫る刃を拒め」
床へ掌をかざした瞬間、橙色の理力光が弾ける。
床板の一部が、まるで土のように柔らかく盛り上がった。さらにレオルルが指先で軽く撫でると、盛り上がった床は音もなく元の形へ戻っていく。
教室から歓声が上がった。
「これくらい当然だろ」
レオルルは得意げに胸を張る。
「ふむ。相変わらず良い感覚だ。放出も安定している。さすがだな、レオルル」
マルクが満足そうに頷く。
続いてクロフトが呼ばれた。
「カーバンクルの加護よ! 円環に巡り、我が律へ応えよ。見えざる翼となり、我が身を運べぇ!」
風の加護を持つ彼が腕を振ると、淡い翠色の風が教室を吹き抜け、机の上の紙片をふわりと浮かせた。数枚の紙が蝶のように舞い、女子生徒たちが小さく声を上げる。
「へへへーっ、見たか!」
「いいぞ、クロフト。風の流れをよく掴めている。粗さはあるが、勢いは悪くない」
クロフトは照れ隠しのように鼻を擦った。
さらにミリオ。
「フェニックスの加護よ……円環に巡り、我が律へ応えよ。燃え盛る灯となり、眼前の命を照らせ……」
赤い理力光が小さく灯り、彼の掌に控えめな火球が浮かび上がる。まだ頼りない火だった。けれど、その揺らぎはとても丁寧で、まるでミリオ自身が火を怖がらせないように、そっと支えているみたいだった。
「悪くない。繊細な制御だ」
「……ふう。よかったど……」
褒められたミリオが、恥ずかしそうに頬を掻く。
教室には笑顔と歓声が満ちていた。
加護を持つ者たちの輝き。
選ばれた子供たちの未来。
それはフィオルの目には、ひどく眩しく見えた。
そして。
マルクが、そこでわざとらしく間を空けた。
紙を一枚めくる。
視線を落とす。
ほんの少しだけ、口元を歪める。
「――次。フィオル・ストラティ」
ざわり、と教室の空気が揺れた。
最初の一年、誰もが偶然だと思っていた。二年目には、気の毒だと囁かれた。
そして今では、笑い声が先に来るようになった。
「ぷっ」
「今日こそ出るんじゃね?」
「いや無理だろ。何回目だよ」
くすくすと笑い声が漏れ始める。
フィオルの肩が、小さく震えた。
その時だった。
「大丈夫だ」
隣から、小さな声が聞こえた。
ロイだった。
「今日こそ、きっと出る」
その目は、まっすぐだった。疑っていない目だった。
フィオルが自分を信じられなくても、ロイだけは信じてくれている。
フィオルは小さく頷き返す。
けれど、立ち上がった足は重かった。
一歩、また一歩と教壇へ向かうたび、靴音だけがやけに大きく耳に響く。視線が刺さる。背中が熱い。指先だけが冷たい。
怖い。
笑われるのが、怖い。
できない自分を、周りに見せつけるのも、自分に見せつけるのも怖い。
俯いたまま、フィオルは床の木目を数えた。
一、二、三。
そんなことでもしていないと、教壇までの数歩が、まるで処刑台へ向かう道のように思えてしまう。
やがて、マルクの手がフィオルの肩へ置かれた。
傍目には、優しく励ます教師の仕草に見えただろう。
けれどその手は、少しも温かくなかった。
「さあ、ストラティ」
低い声が、頭上から落ちてくる。
「見せるんだ。お前の加護を」
教室が静まり返った。
フィオルは唇を噛む。
震える指先。締め付けられる胸。喉の奥に張りついた声。
「…………ません」
かろうじて漏れた声は、虫の羽音にも届かないほど小さかった




