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光源氏がうるさいので、既読スルーの葵上を応援します ~平安転生した国文学生が夫婦関係に巻き込まれた話~  作者: 春凪とおる


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第3話:その香、昨日も嗅ぎました

 春の夕方は、昼より少しだけ冷える。

 庭の梅は、朝よりも静かに見えた。


 白い花が、薄い夕暮れの中でぼんやり浮かぶ。

 風が吹くたび、やわらかい香が流れてくる。


 この家に来て知ったのは、平安の人は、

 びっくりするほど匂いに敏感だということだった。


 香。

 衣。

 袖。

 花。


 全部、情報になる。

(犬よりすごい)


 ぼんやりしていると、たぶん生き残れない。

 雅だけど、中身はだいぶ情報戦だ。


(恋愛というより、防犯)


 私は硯を片づけながら、小さく息を吐いた。

 朝に届いた文は、相変わらずだった。


 春の雪がどうとか、氷の心がどうとか。

 やたら美しい言葉で。


 要するに、

(まだ怒ってる?)

 だった。


 雑に訳すと、だいぶ情緒がなくなる。

 でも、たぶん間違っていない。


 葵の上は、その文にも返歌をしなかった。


 北の方様は今日も強い。 

 いや、葵ちゃんは今日も強い。


 夕方。

 女房が、静かに知らせに来た。


「光る君が、おいででございます」

(また来た)


 懲りない。

 御簾の向こう。

 白い直衣が見える。


 相変わらず、やたらと絵になる。

 でも。 


(……あれ)


 昨日と同じ、白。

 なのに。


(違う)


 わからない。

 けれど、違う。


 昨日の白は、もっと冷たかった。

 ちゃんとしていた。


 今日の白は、少しだけやわらかい。


 甘い。

 近い。


 誰かが、選んだ白。


(嫌な予感しかしない)


 そして。

 香。


 御簾の向こうから、ふわりと流れてきたそれに、

 私は思わず、手を止めた。


(あっ)


 昨日の梅ではない。

 もっと甘い。

 もっと近い。


 女の部屋に残る、袖の香。

 女房たちの空気が、ほんの少しだけ変わる。


 誰も何も言わない。

 でも、たぶん全員わかっている。


 怖い。

 平安、こういうところが本当に怖い。


「今日は、ずいぶん華やかな香でございますね」

 葵の上が、静かに言った。 


 終わった。

 私は思った。


(死んだ)


 光る君が、一瞬だけ止まる。

 本当に、一瞬だけ。


「そうかな」

 笑う。


 顔はいい。

 でも雑。


「春の風が、いろいろ運ぶからね」

(風のせいにするな)


 私は心の中で全力でつっこんだ。

 葵の上は、少しも表情を変えない。 


「そう」


 その一言が、いちばん怖い。


 責めない。

 怒らない。

 問い詰めない。


 ただ、覚えた。

 それだけだ。

 たぶん、その方がずっと怖い。


 光る君は、何事もなかったように笑う。


「君は、本当に疑い深いね」

「確認しているだけです」


 即答だった。

 強い。


「その直衣」

 葵の上は、視線をわずかに向ける。


「見慣れませんね」

 終わった。


(追撃きた)


 私はもう、消えたかった。


 その白。

 新婚の頃、北の方様が選ばせたもの。

 私は、ちゃんと覚えていた。


 白地、雲立涌。

 冬の終わりの、きんと冷たい白。


 ちゃんとした夫として、ここへ来るための白。

 あれは、北の方様の白だった。


 でも今日のこれは違う。

 少し甘い。


 梅唐草。

 春を待つような、やわらかな紋。

 誰かが、似合うと言ったのだろう。


(誰だ)

(いや、だいたいわかるけど)


 光る君は、少しだけ袖を見た。


「気分を変えてみただけだよ」

(雑)


 言い訳が雑。雑すぎる。

 葵の上は、静かにうなずく。


「そう」

 また、それだ。

 たぶん、この「そう」が一番重い。


 梅の花が、ひとつ落ちた。

 春なのに、空気が少し冷たい。


 光る君は、それでも笑っている。


 たぶん、本気で悪気がない。

 それが一番たちが悪い。


「兄上にも、同じことを言われそうだ」

 ふと、そんなことを言った。


 頭中将。

 兄であり、親友であり、

たぶん、こういう時だけ妙に正しい人。


(そこは正しいんだ)


 少しだけ、私は頭中将を見直した。

 葵の上は、何も言わない。


 でも。

(……葵ちゃん)


 その沈黙の奥にあるものを、見た気がした。

 ちゃんとしている人ほど、傷ついた顔を見せない。


 だから、見落としそうになる。

 でも、ちゃんと痛い。


 光る君は、最後まで美しくて、

 最後まで少しだけ雑で、

「また来る」

 と言って帰っていった。


(来るんだ)


 静かになった部屋で、私はようやく息を吐く。


「北の方様」

「何」

「……お文は、尽きませんね」


 葵の上は、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。

「そうね」


 それだけだった。

 でも、たぶんそれで十分だった。


 私は、小さくうなずく。


(確定)

(光る君。ちゃんとだめだ)


 恋愛ではない。

 防犯でもない。

 たぶんもう、災害に近い。


 梅の香だけが、静かに春をしていた。


光「宿の梅 まだうらがれて 見ゆれども 移り香をこそ 風に問ふらめ」

葵「風に乗る 残り香ならば うたてけり 主もわかぬを 誰か愛でん」


理子「あー、そりゃ、よその女の香りはヤダよね......」

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