4話『喜んでくださるかしら』
午後の講義は、静かに進んでいった。
サロンでの騒ぎが嘘のように、教室には針が布を抜ける小さな音だけが響いている。
セレスティーヌはゆっくりと息を整えながら、深く青いハンカチに針を通す。
(あと、少し……)
──最後の一針を刺し終え、糸を留めた。
ハンカチを広げると、窓から差し込む光が刺繍に影を作る。
濃淡様々な黒い糸で刺された、皇帝家の家紋と、聖騎士団の紋章。
ハンカチの縁には、翡翠色の糸で守りの刺繍として定番な植物が刺されている。
陰によってまるで浮かび上がるかのように見えた。
「完成ですね、アイゼンハルト様。見事な出来栄えです」
刺繍の教師が、柔らかく目を細めた。
「ありがとうございます、先生。今まで、色々とご教示いただきました」
「いいえ。あなたの努力の結果ですよ。……ずっと、お渡ししたい方のために、丁寧に刺していらっしゃいましたからね」
柔らかくほほ笑む教師の眼差しは微笑ましげだ。
同じテーブルに座る女子生徒たちの表情も微笑ましげだ。
頬が熱くなる。
積極的に広めたわけではない。
それでも、静かな講義中に、アドバイスを受けるために贈る相手や目的を説明すれば、女子生徒たちの耳に自然とはいる。
カシウスに伝わっていないのは、彼女たちがそれを胸の内に留めておいてくれていたからだ。
教師に預かって貰っていた小さな箱を、受け取る。
ハンカチを丁寧に畳み、その箱へ収め、リボンを結ぶ。
(練習していてよかった……)
侍女たちと練習した甲斐あって、翡翠色のリボンは綺麗に結ばれている。
(喜んで……くださるかしら)
胸の前で抱えると、心臓の音が、いつもより少し大きく聞こえた。
◇
セレスティーヌが講義を終えて廊下へ出ると、カシウスはすでに待っていた。
腕を組み、窓際に立って目を伏せていた。
ふと、その瞼が開き、その目がセレスティーヌの姿を捉える。
それだけで、先ほどまで周囲に漂っていた緊張が、ふっと緩んだ。
セレスティーヌをいつも優しく見つめる美しい青と、パチッと目が合った。
「リューク様、お待たせ致しました」
「いや、あれは待ち時間のうちに入らない」
カシウスが大股で歩み寄ってくる。
背後の緊張感が高まる気配がして、セレスティーヌもまた婚約者にゆっくりと歩み寄る。
「まあ、男子生徒の講義は一時間ほど早く終わると聞いておりますよ?」
「ルナのことを考えていれば、その程度の時間などあってないようなものだ」
そんなことをいうカシウスは真顔だ。
思わず、ふふふっと笑ってしまう。
ほころぶ頬に、カシウスの手が添えられる。
「……顔色は悪くないな。無理はしていないか?」
「はい、無理はしておりません」
「ならば良い」
ひとつ頷くと、慣れた仕草でセレスティーヌに手のひらを差し出した。
その手のひらに手を添えると、反対の手が支えるように腰に回される。
ゆっくりと歩き出す。
カシウスの支えがあるから、ひとりで歩くよりもずっと楽だった。
生徒たちが道を空け、学園内であるから、静かに目礼をしていく。
目の前を通ると、彼らの緊張感が高まる。
そして、セレスティーヌたちが、遠ざかるとその気配は和らぐ。
(……皆様、まだ先ほどのことを引きずっておいでなのね)
カシウスの苛烈な性格も、セレスティーヌ以外への関心の薄さも皆の知るところだ。
それでも、実際にカシウスの苛烈さを見てしまえば、やはり恐怖は簡単に消えないのだろう。
そっと隣を歩くカシウスを見上げると……いつから見ていたのか、パチッと目が合った。
その顔が柔らかく笑み、セレスティーヌもほほえみ返す。
「リューク様」
「うん?」
「その……」
いざ言おうとすると、緊張で口の中が乾く。
小さく息を吐き出す。
「……お屋敷に戻る前に、少しだけお時間をいただけますか?」
カシウスの眉がピクリと上がり、その足が止まった。
「構わないが……」
深い青の瞳が、セレスティーヌの頭のてっぺんから、足元まで見る。
(あ……)
緊張していたことで、勘違いされたことに気がつく。
「……何かあったのか?」
「いえ、悪いことではございません。お渡ししたいものがございまして……」
「渡したいもの?」
「はい」
じわじわと目尻が赤らむ。
カシウスはそんなセレスティーヌをじっと見つめ、背後を一瞥した。
「庭園に向かう」
「かしこまりました」
背後にいた侍女たちが深く頭を下げると、四阿に茶の準備をすべく、足早に庭園へと向かっていった。
セレスティーヌたちも、ゆっくりと庭園に向かって歩き出す。




