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境界調整室 ~その境界、どなたか動かしましたね?~  作者: 大神みや
第一案件 十七ミリの境界

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6/10

ボーダー

東浜市役所へ戻ったのは、午後四時を過ぎていた。


昨日と同じ会議室。


昨日と違うのは、人数だった。


市側が五人。


施設の会社から二人。


こちらは前田さん、山田さん、俺、戸地さん。


そして、一番奥に東浜市の副市長が座っていた。


「確認します」


前田さんが言った。


机の上には、地下で見つけた資料の写しが並んでいる。


「境界標を意図的に移動させましたね」


誰も答えない。


「三年前から、少しずつ」


沈黙。


「十七ミリから始めた」


副市長が口を開いた。


「それについては、調査します」


山田さんが小さくため息をついた。


「調査するの、こっちなんですよ」


副市長が山田さんを見る。


「まだ、市が関与したと決まったわけではないでしょう」


「企画財政課の文書が出てます」


「担当者が独断で作成した可能性もあります」


「じゃあ、その担当者呼びます?」


黙った。


山田さんがこちらを見る。


「境ちゃん」


「はい」


「こういうの覚えといて」


「何をですか」


「役所で『担当者が勝手に』って言い始めたら、だいたい担当者だけじゃない」


「山田」


前田さんが止めた。


「はい」


副市長の顔が怖い。


新人研修としては刺激が強すぎる。


*


話は一時間以上続いた。


途中から、俺には分からない言葉ばかりになった。


税。


償却資産。


協定。


開発計画。


施設の増設。


ようやく分かったことが一つある。


天然ガスそのものが、東浜市のものになるわけではない。


問題は、その上にある設備だった。


採取施設。


処理設備。


地下配管。


新しく造られる予定だった設備。


それらがどちらの自治体に所在するのか。


そこで税収が変わる。


「そんなに違うんですか」


俺は小声で山田さんに聞いた。


「積み重なるとね」


「十七ミリ動かすほど?」


「十七ミリじゃないよ」


山田さんが資料を見る。


「最終的には、施設全体をこっち側に入れるつもりだった」


地下で見た図面を思い出す。


最初は十七ミリ。


少しずつ。


誰にも気づかれないように。


境界標を動かす。

市の資料も、それに合わせる。

最後には、それを本当の境界として通す。


「でも、ばれますよね」


「ばれたね」


「じゃあ、なんで」


山田さんは答えなかった。


*


会議が終わりかけた頃だった。


副市長が言った。


「少しだけ、お時間をいただけますか」


前田さんが時計を見る。


「どうぞ」


副市長はしばらく机を見ていた。


「東浜市は、人口が減っています」


誰も何も言わない。


「企業も減りました。商店街も、昔の半分以下です」


急に話が変わった。


「学校も一校、統合しました」


副市長が顔を上げる。


「来年、もう一校です」


前田さんは黙って聞いている。


「この施設の増設計画が出た時、市としては大きな話でした」


「だから境界を動かした?」


山田さんが聞いた。


「正しいとは言っていません」


「正しくないですよ」


「分かっています」


副市長の声は静かだった。


「でも、自治体も生き残らなければならない」


山田さんが椅子にもたれた。


「西浦町だって同じでしょう」


「そうです」


「じゃあ、そっちから取っていい理由にはならない」


「その通りです」


副市長はそれ以上言わなかった。


言い訳をするのかと思った。


しなかった。


だから余計に困った。


悪いことをした人間が、分かりやすく悪い顔をしてくれればいい。


そうではなかった。


人口が減る。


学校がなくなる。


税収が減る。


その中で、地下にあるガスと、その上にできる設備を見ていた。


やったことは駄目だ。


それでも、少しだけ分かってしまった。


「境ちゃん」


帰り際、山田さんが言った。


「難しい顔してるね」


「ちょっと」


「同情した?」


「少し」


「していいよ」


意外だった。


「いいんですか?」


「別に」


山田さんが鞄を持つ。


「同情するのと、元に戻すのは別だから」


*


東京へ戻ったのは八時を過ぎていた。


四階には室長だけが残っていた。


「お帰り」


「ただいま戻りました」


前田さんが報告する。


室長は黙って聞いていた。


境界標の移動。


地下施設。


市の関与。


施設会社の関与。


今後の処理。


全部聞き終えると、室長が言った。


「戻せる?」


戸地さんが答えた。


「はい」


「元の位置、出る?」


「出せます」


「じゃあ戻して」


それだけだった。


俺は思わず聞いた。


「それだけですか?」


室長が俺を見る。


「何が?」


「いや、もっとこう……」


言葉が出てこない。


「逮捕とか」


山田さんが吹き出した。


「誰を?」


室長が聞く。


「副市長とか」


「境君」


「はい」


「うちは警察じゃないよ」


「そうでした」


もう、何の仕事をしているのか分からなくなっていた。


「関係するところには報告する。必要な処分は、それぞれがする」


室長が書類を閉じる。


「うちは境界を戻す」


単純だった。


「でも、また動かしたら?」


俺が聞く。


「また戻す」


「また?」


「それが仕事だから」


室長が時計を見る。


「今日は終わり」


「はい」


「お疲れさま」


パソコンを閉じる。


終わった。


三日前まで、俺は境界調整室が何をするところか知らなかった。


今もよく分からない。


*


「飲んでく?」


山田さんが言った。


「今からですか?」


「今からだからだよ」


「どこにですか?」


「下」


下。


一階。


思い出した。


「ボーダー?」


「そう」


「本当に行くんですか」


「居酒屋だからね」


前田さんも鞄を持った。


「私も行くよ」


前田さんが戸地さんを見る。


「戸地さんは?」


「行きます」


結局、四人で階段を下りた。


三階。


普通の会社はもう暗い。


二階。


田中会計事務所には、まだ明かりがついている。


一階。


管理人室の前を通る。


筋肉のすごい管理人がいた。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


山田さんが普通に挨拶する。


知り合いらしい。


「加藤さん、まだいるんですね」


「仕事だからな」


「ですよね」


初めて名前を知った。


*


『ボーダー』の戸を開けた。


「いらっしゃい」


カウンターの中に、白髪の男がいた。


七十代くらいだろうか。


店は小さい。煮込みだろうか。出汁と醤油の匂いがした。


カウンターが八席ほど。


奥に座敷が二つ。


客はいなかった。


「四人」


山田さんが言う。


「見れば分かります」


「今日、新人連れてきた」


店主が俺と戸地さんを見る。


「境君と戸地さん」


俺は山田さんを見る。


「なんで知ってるんですか」


「さあ」


店主が笑う。


怖い。


「とりあえずビール?」


山田さんが聞く。


「僕、ビールで」


「私も」


前田さんが言う。


戸地さんは少し迷った。


「私もビールで」


「飲める?」


俺が聞く。


「飲めます」


少し間があった。


「たぶん」


たぶん?


四つのグラスが並んだ。


山田さんが持ち上げる。


「新人二人、初仕事終了」


「山田さん」


俺が言った。


「何?」


「今回、半分くらい山田さんの事故じゃないですか」


「それとこれとは別」


「別じゃないですよ」


戸地さんが髪を触った。


「私、髪なくなったんですけど」


「なくなってないよ」


「短くなりました」


「似合ってるよ」


「山田さんに言われても嬉しくないです」


「境ちゃんは?」


俺を見る。


「僕?」


「似合ってるって言った?」


戸地さんが先に答えた。


「言いました」


なぜまた報告する。


前田さんが笑っている。


「じゃあ、いいじゃない」


「よくないです」


「とにかく」


山田さんがグラスを上げた。


「お疲れ」


「お疲れさまでした」


グラスを合わせた。


飲む。


冷たい。


ようやく終わった気がした。


*


一時間後。


戸地さんはカウンターに突っ伏していた。


「戸地さん?」


返事がない。


「寝てる?」


前田さんが顔を覗く。


「寝てるね」


「ビール一杯ですよ」


「弱いんだね」


「本人、飲めるって言ってましたけど」


山田さんが笑う。


「飲むのが好きなのと、強いのは別だから」


なるほど。


戸地さんが少し顔を上げた。


眼鏡がずれている。


「境くん」


「何?」


「髪」


「髪?」


「ほんとに変じゃない?」


「変じゃないよ」


「ほんと?」


「似合ってるって」


戸地さんは俺をしばらく見た。


「なら、いい」


また伏せた。


寝た。


「何なんだ」


俺が言う。


前田さんが俺を見ている。


「何ですか?」


「なんでもない」


前田さんは小さく笑って、俺から視線を外した。


店主が黙って皿を置いた。


煮込みだった。


「マスター」


山田さんが言う。


「今日、十七ミリだった」


店主の手が止まった。


「十七?」


「最初はね」


「それはまた、細かい」


「笑う?」


店主が山田さんを見る。


「笑いませんよ」


そう言って、鍋の方へ戻った。


俺は少し驚いた。


「話していいんですか?」


「何を?」


山田さんが聞く。


「仕事のこと」


「ここならいいよ」


「なんで?」


「そういう店だから」


また分からないことが増えた。


店の名前を見る。


ボーダー。


境界。


「まさか」


俺は山田さんを見る。


「この店、境界調整室と関係あるんですか?」


山田さんがビールを飲む。


「さあ」


「絶対あるでしょ」


「そのうち分かるよ」


「またそれですか」


マスターが向こうから言った。


「境君」


「はい」


「知らない方が長生きすることもありますよ」


笑っている。


冗談なのか分からない。


隣を見る。


戸地さんは寝ている。


前田さんは煮込みを食べている。


山田さんは二杯目を頼んでいる。


三日前。


俺は地図を作る仕事がしたいと思っていた。


それが今は、


境界標を追いかけ、


地下施設に入り、


天然ガスで燃えかけ、


同期の髪が短くなり、


なぜか関係者しか来なさそうな居酒屋で酒を飲んでいる。


俺はビールを飲んだ。


「山田さん」


「何?」


「僕、本当に公務員になったんですよね?」


「なったよ」


「ですよね」


「大丈夫」


山田さんが笑った。


「そのうち慣れるから」


あまり慣れたくないと思った。


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