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境界調整室 ~その境界、どなたか動かしましたね?~  作者: 大神みや
第一案件 十七ミリの境界

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5/11

向こう側

翌朝。


四階へ上がると、戸地さんがいた。


「おはよう」


「おはよう」


一度通り過ぎた。


止まった。


振り返る。


「え?」


戸地さんがこっちを見る。


髪が短くなっていた。


肩まであった髪が、耳の下あたりで揃っている。


「切ったんだ」


「切るしかなかったから」


「ああ」


「何?」


「いや」


昨日まで髪に隠れていた顔が、よく見える。


思っていたより目が大きい。


戸地って、こんな顔してたんだ。


「変?」


「いや。似合ってる」


「ほんと?」


「うん」


戸地さんが髪を触った。


「ならいいけど」


「眼鏡も似合うね」


「それは昨日もしてた」


「そうだけど」


何を言っているんだ、俺は。


「境くん」


「何?」


「今日、なんか変」


「そう?」


「うん」


自分でもそう思う。


「おはよう」


後ろから声がした。


前田さんだった。


「おはようございます」


振り返る。


今日も綺麗だ。


やっぱり綺麗だ。


「戸地さん、髪切ったの?」


「はい」


「似合ってる」


「ありがとうございます」


前田さんは俺を見る。


「境くんもそう思うでしょ?」


「え?」


「さっき言ってました」


戸地さんが答えた。


なぜ報告する。


前田さんが少し笑った。


「朝から仲いいわね」


「違います」


俺と戸地さんの声が重なった。


前田さんは何も言わなかった。


その顔が少し気になった。


*


室長に呼ばれた。


山田さんはすでに室長の机の前に立っていた。


「おはようございます」


「おはよう」


室長は書類を見ている。


「昨日、大変だったそうだね」


「はい」


俺は山田さんを見る。


山田さんは前を向いている。


「天然ガスの採取施設で喫煙」


室長が読む。


「はい」


「着火」


「はい」


「新人二名を巻き込む」


「はい」


「一名、髪を焼損」


「はい」


戸地さんが小さく手を上げた。


「私です」


「知ってる」


室長は書類を置いた。


「山田」


「はい」


「馬鹿なの?」


静かだった。


「申し訳ありません」


「天然ガスの施設だよ」


「はい」


「煙草吸う?」


「普通は吸いません」


「そうだね」


「はい」


「どうして吸ったの?」


山田さんが少し考えた。


「癖で」


室長が眼鏡を外した。


「前田」


「はい」


「今日から現場責任者」


「分かりました」


「山田は?」


前田さんが聞く。


「連れてって。土地勘あるから」


「分かりました」


室長は俺と戸地さんを見る。


「二人も行って」


「はい」


「はい」


「ただし」


室長が山田さんを見る。


「火を使いそうになったら止めて」


「分かりました」


俺が答えた。


「境君」


「はい」


「殴ってもいいから」


「そこまで?」


「いいよ」


山田さんが振り返る。


「よくないよ」


誰も答えなかった。


*


四人で千葉へ向かった。


運転は前田さん。


助手席は山田さん。


俺と戸地さんが後ろだった。


「前田さんも現場行くんですね」


俺が聞いた。


「行くよ」


「なんとなく、事務所にいる人かと」


「どういう意味?」


「いや、その」


綺麗だから。


とは言えない。


「境ちゃん」


山田さんが前から言った。


「はい」


「前田さん、怖いよ」


「山田」


「はい」


「本当に降ろすよ」


「すみません」


昨日から山田さんの立場が弱い。


戸地さんが窓の外を見ながら笑っていた。


*


施設に着くと、昨日とは雰囲気が違った。


消防の車はいない。


ただ、建物の一部に立入禁止のテープが残っている。


昨日の担当者が待っていた。


その隣に、別の男が二人。


前田さんが名刺を出した。


「昨日の事故に伴う設備確認と、境界に関する調査を行います」


「地下もですか」


「地下が中心です」


男は少し嫌そうな顔をした。


「昨日も申し上げましたが、管理区域です」


「承知しています」


前田さんが鞄から書類を出した。


「こちらです」


男が読む。


顔が変わった。


俺は横から覗こうとした。


見えない。


「何ですか、あれ」


小声で山田さんに聞く。


「書類」


「それは分かります」


「強い書類」


「何ですか、強い書類って」


「新人にはまだ早い」


前田さんがこちらへ戻ってきた。


「施設側の責任者が、調査に同意してくれたの。地下も対象だと、書面で確認してある」


絶対に適当だ。


前田さんが振り返る。


「行きますよ」


「はい」


山田さんが歩き出す。


「山田さん」


戸地さんが呼び止めた。


「何?」


「煙草」


「吸ってないよ」


「持ってますよね」


「持ってるけど」


「車に置いてきてください」


山田さんがこちらを見る。


「境ちゃん」


「置いてきてください」


「はい」


*


昨日の階段を下りた。


四人と施設の担当者。


地下は相変わらず薄暗い。照明の白い光が、配管の影を長く床へ落としている。


例の扉まで来る。


前田さんが言った。


「開けてください」


担当者が鍵を出した。


昨日はあれだけ渋っていたのに、今日はあっさり開いた。


強い書類は本当に強いらしい。


扉の向こうにも通路があった。


ただし、今までとは違う。


新しい。


壁も床も綺麗だった。


太い配管が二本、奥へ伸びている。


「これが点検通路?」


前田さんが聞く。


担当者は答えない。


歩く。


戸地さんが、施設から受け取った通路の図面を開いている。入口から進んだ距離を記録と照らしていた。


五十メートルほど進んだところで止まった。


「前田さん」


「何?」


「ここです」


「境界?」


「はい」


戸地さんが床を見る。


もちろん線など引いていない。


「東浜市の資料だと?」


前田さんが聞く。


「もう少し先です」


「国の地図では?」


「ここです」


俺は足元を見る。


右も左も同じコンクリートだ。


「じゃあ、ここから先は西浦町?」


「国の地図なら」


戸地さんが答えた。


前田さんが配管を見る。


「続いてるね」


続いている。


境界など関係ないように、そのまま奥へ伸びている。


「これ、まずくないですか?」


俺が聞く。


山田さんが答えた。


「だから来たんだよ」


さらに進む。


通路は少し下り坂になった。


やがて広い空間に出た。


機械が並んでいる。


ポンプ。


バルブ。


見たことのない装置。


壁には配管図が貼ってあった。


前田さんが近づく。


「戸地さん」


「はい」


「位置」


戸地さんが確認する。


少し時間がかかった。


「この部屋の位置は、施設の測量記録にもあります。国の地図と重ねると、境界を越えてます」


「どれくらい?」


「この部屋の中心で、国の地図の境界から十二・四メートル」


十二・四メートル。


十七ミリどころではなかった。


「でも」


俺は分からなくなった。


「地上の杭は二十センチくらいしか動いてなかったですよね」


「見つけたところまではね」


山田さんが言った。


前田さんが配管図を見る。


「境君、地図見せてくれる?」


俺は鞄から昨日の地図を出した。


床の上に広げる。


前田さんが、昨日測った点を指で追った。


十七ミリ。


三十四ミリ。


七十一ミリ。


百二十六ミリ。


二百十八ミリ。


その先。


施設の敷地へ入る。


そこには測っていない点がまだいくつもある。


「少しずつ大きくしてる」


俺が言った。


前田さんが頷いた。


「一か所だけ何メートルも動かせば、すぐ分かる」


「だから?」


「長い距離を使って、少しずつ境界標をずらした」


戸地さんが地図を見る。


「施設に近づくほど、ずれを大きくしてる」


線を一本引いてみる。


国の地図の境界。


東浜市の資料にある境界。


二本の線の間に、細長い三角形ができた。


施設に近い方ほど、二本の線の間が広がっている。地下の部屋は、その広がった部分に収まっていた。


「こんなことして何になるんですか」


俺が聞いた。


山田さんが配管を叩いた。


「これ」


「ガス?」


「そう」


前田さんが担当者を見る。


「この先の井戸は?」


「私は……」


「どこまで掘ってます?」


答えない。


前田さんが壁の図面を見る。


一本の線が、さらに地下深くへ伸びていた。


斜めに。


「垂直じゃないんですね」


俺が言った。


山田さんが頷く。


「井戸って、真下だけ掘るとは限らないから」


「曲がるんですか?」


「曲げる」


知らなかった。


図面の線は地下深くで西へ伸びている。


その先に、色のついた範囲があった。


「これ何ですか?」


誰も答えない。


戸地さんが小さく言った。


「ガス層?」


山田さんが頷いた。


「たぶんね」


俺は地図を見る。


地上の境界。


地下の配管。


斜めに伸びる井戸。


全部重ねる。


ようやく分かった。


「この部屋まで、東浜市の中にあることにしたかった?」


前田さんが担当者を見る。


「そういうことですか」


男は俯いた。


*


さらに奥に、小さな事務室があった。


机。


古いパソコン。


書類棚。


前田さんが棚を見る。


「境界関係の資料はありますか」


「ありません」


担当者が即答した。


早い。


山田さんがこちらを見る。


俺も山田さんを見る。


昨日から少し分かるようになってきた。


こういう時は、だいたいある。


戸地さんが棚の下を見る。


「これ」


古いファイルが一冊あった。


背表紙に何も書いていない。


担当者の顔色が変わった。


前田さんが手に取る。


開く。


測量図だった。


手書きの数字。


座標。


日付。


三年前。


二年前。


去年。


今年。


同じ境界点の座標が、年ごとに少しずつ西へ変わっている。


「これ……」


俺は今年の図面を開いた。


境界点ごとに、元の位置から動かす距離が書いてある。


十七ミリ。三十四ミリ。七十一ミリ。


昨日、俺たちが測った五か所と、順番も数字も同じだった。


偶然ではない。


最初から計算されていた。


最後のページに、図面が折り込まれていた。


前田さんが開く。


誰も喋らなかった。


国の地図の境界線。


東浜市の資料にある境界線。


地下施設。


採取井。


全部描いてある。

国の地図は動いていない。

動いていたのは、現地の境界標と、東浜市側の資料だった。


その下に小さく文字があった。


『境界調整計画』


俺はしばらくそれを見た。


「調整って」


山田さんを見る。


「僕たちの仕事じゃないんですか」


山田さんが笑った。


「向こうも同業だったみたいだね」


前田さんがファイルを閉じる。


「笑ってる場合じゃない」


「はい」


「これ、持ち帰ります」


担当者が初めて強い声を出した。


「それは困ります」


前田さんが振り返る。


「なぜですか」


「社内資料です」


「そうですね」


「持ち出しは認められません」


前田さんは少し考えた。


そして俺たちを見る。


「じゃあ、全部記録して」


「はい」


戸地さんがすぐ動いた。


俺もスマホを出そうとした。


「境君」


前田さんだった。


「はい」


「それはしまって」


「なんでですか?」


「私物は使わないで」


「すみません」


何も分かっていない。


専用のカメラを渡された。


ページを一枚ずつ撮る。


途中で、別の紙が挟まっていた。


役所の文書だった。


東浜市。


企画財政課。


昨日会った部署だ。


山田さんが読む。


「なるほどね」


「何ですか」


「会社だけじゃない」


前田さんも見る。


「市も知ってた?」


担当者は何も言わなかった。


山田さんがこちらを見る。


「境ちゃん」


「はい」


「十七ミリ」


「はい」


「まだ笑える?」


俺は首を振った。


「全然」


「だよね」


山田さんが地下の壁を軽く叩いた。


「十七ミリを笑うな」


今度は、その意味が分かった気がした。


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