地下
翌日。
また千葉にいた。
昨日と同じ白いワゴン。
昨日と同じ三人。
違うのは、山田さんが朝から機嫌がいいことだった。
「楽しそうですね」
「そう?」
「楽しそうです」
「現場好きだからね」
「地下施設ですよ」
「だから」
この人とは分かり合えない気がする。
後ろを見る。
戸地さんは窓の外を見ている。
今日はほとんど喋らない。
「緊張してる?」
「少し」
「僕も」
「境くんは昨日からずっと喋ってるね」
「緊張すると喋るんだよ」
「そうなんだ」
「戸地さんは?」
「私は黙っちゃう」
分かりやすい。
前から山田さんが言った。
「大丈夫だよ」
「昨日も聞きました」
「何かあったら俺がいるから」
「その言葉、信用していいんですか?」
「失礼だな」
戸地さんが小さく笑った。
*
施設は海から少し離れた場所にあった。
高いフェンス。
配管。
銀色のタンク。
二階建ての建物。
昨日、遠くから見た時より大きい。
入口で名前を書かされた。
会社の担当者が出てきた。
五十代くらいの男だった。
「昨日、市役所から連絡を受けています」
山田さんが頭を下げる。
「急ですみません」
「どちらをご覧になりますか」
「全部」
男が止まった。
「全部、ですか」
「境界に関係しそうなところを」
「地上設備だけでは?」
「地下もお願いします」
男の顔が少し固くなった。
昨日の市役所と同じだった。
「地下には特に何もありませんが」
「じゃあ、すぐ終わりますね」
山田さんが笑った。
この人、こういう時だけ仕事ができる。
*
最初は地上を見た。
配管。
井戸。
ポンプ。
処理設備。
説明を聞いても、俺には半分も分からない。
戸地さんは時々質問している。
「この位置は竣工図と同じですか」
「ええ」
「こちらの配管も?」
「そうです」
俺は黙ってついていく。
完全に役に立っていない。
建物の裏へ回った。
そこに、小さな扉があった。
山田さんが止まる。
「これは?」
「機械室です」
「見ても?」
担当者が少し迷った。
「危険物もありますので」
「入れない?」
「そういうわけではありませんが」
山田さんが扉を見る。
「お願いします」
担当者が鍵を開けた。
*
中は狭かった。
機械が並んでいる。
奥に階段がある。
下へ続いていた。
俺は山田さんを見る。
山田さんも俺を見る。
「地下、ありましたね」
「あるね」
担当者が言った。
「配管の点検通路です」
「昨日は特に何もないって」
「設備というほどのものではありません」
山田さんが階段を覗く。
「降りても?」
また担当者が黙った。
だんだん分かってきた。
この人が黙ると、何かある。
*
階段は思ったより深かった。
コンクリートの壁。
天井には配管。
照明は少ない。
地上よりひんやりしていて、湿ったコンクリートの匂いがした。足音が響く。
十メートルほど降りたところで、横へ通路が伸びていた。
「こんなのがあるんですね」
俺が言う。
「点検用です」
担当者が答える。
「どこまで続いてるんですか?」
「それほど先までは」
曖昧だ。
山田さんが戸地さんを見る。
「分かる?」
戸地さんがタブレットを見る。
「位置ですか?」
「うん」
戸地さんは、入口で確認した位置から図面の通路を指でたどった。
「図面上では、地上の境界にかなり近いです。正確な位置は、通路の測量記録も確かめたいです」
「どっち側?」
「今は東浜市側です」
今は。
その言葉が引っかかった。
「前の境界だったら?」
俺が聞く。
戸地さんが画面を見る。
指で拡大する。
「もう少し先で越えると思う」
担当者がこちらを見る。
山田さんは何も言わず歩き始めた。
*
通路の奥に、もう一枚扉があった。
新しい。
周囲のコンクリートと色が違う。
山田さんが触る。
「これ、いつ作ったんです?」
「私は詳しくは」
「二年前?」
担当者は答えなかった。
山田さんがこちらを見る。
昨日、戸地さんが見つけた建物。
境界が動き始めた時期。
二年前。
「開けてもらえます?」
「ここから先は管理区域です」
「さっきも管理区域でしたよね」
「ここは別です」
「何があるんです?」
「設備です」
「何の?」
沈黙。
山田さんがため息をついた。
「面倒だなあ」
担当者が顔を上げる。
「何がですか」
「一回東京戻って、書類作って、上に説明して、また来るの」
「規則ですので」
「そうですよね」
山田さんが引き下がった。
意外だった。
もっと揉めると思っていた。
階段へ戻る。
途中で山田さんが小さな声で言った。
「境ちゃん」
「はい」
「扉の位置、覚えた?」
「だいたい」
「戸地ちゃん」
「記録してます」
「さすが」
何をする気だろう。
*
地上へ戻った。
山田さんが建物の裏で煙草を取り出した。
「ここ禁煙じゃないですか?」
俺が言う。
「外だよ」
「施設内ですよ」
「一本だけ」
担当者は事務所へ戻っている。
山田さんがライターを出した。
戸地さんが言った。
「山田さん、やめた方がいいですよ」
「大丈夫、大丈夫」
「天然ガスの施設ですよ」
「ここ屋外だよ」
カチッ。
火がついた。
その瞬間だった。
地面の近くで、
ボッ。
音がした。
青白い火が走った。
「え?」
次の瞬間、山田さんが俺の肩をつかんだ。
「走れ!」
何が起きたのか分からない。
戸地さんが振り返る。
「戸地ちゃん!」
山田さんが叫んだ。
火が地面を這った。
戸地さんのすぐ横だった。
俺は腕をつかんだ。
「こっち!」
三人で離れる。
後ろで警報が鳴った。
けたたましい音。
施設の中から人が飛び出してくる。
「火気!」
誰かが叫んでいる。
「火消せ!」
「バルブ閉めろ!」
山田さんを見る。
煙草はない。
ライターもない。
「山田さん」
「後で」
「何したんですか!」
「後で!」
俺たちはフェンスの外まで出された。
*
幸い、大きな火災にはならなかった。
施設の人間が設備を止めた。
消防も来た。
俺たちは駐車場の端に並んで座っていた。
誰も喋らない。
山田さんが言った。
「いやあ」
俺は見る。
「いやあ、じゃないですよ」
「そうだね」
「死ぬかと思ったんですけど」
「俺も」
「原因、山田さんですよね?」
「たぶん」
「たぶんじゃないですよ!」
戸地さんは黙っていた。
「戸地さん、大丈夫?」
返事がない。
「戸地さん?」
振り向いた。
眼鏡が少しずれている。
顔は煤で汚れていた。
怪我はなさそうだ。
でも。
「髪」
「え?」
右側の毛先が縮れていた。
戸地さんが触る。
指先を見る。
もう一度触る。
「……燃えた?」
山田さんが目をそらした。
「少し」
戸地さんが山田さんを見る。
「少し?」
「ほんの少し」
「山田さん」
「はい」
声が低い。
「……どうしてくれるんですか、これ」
「申し訳ない」
「昨日までこの長さだったんですよ」
「はい」
「伸ばしてたんです」
「はい」
「二年」
「はい」
山田さんが完全に小さくなっている。
俺は笑いそうになった。
笑ったらまずい。
絶対にまずい。
戸地さんが俺を見る。
「境くん」
「はい」
「今、笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「笑ってないって」
「顔が笑ってる」
「無事でよかったなって」
「そういう顔じゃない」
怒っている。
でも、本当に無事でよかった。
山田さんが立ち上がった。
「とりあえず病院行こう」
「山田さんもです」
「俺?」
「頭」
「俺は大丈夫」
「そういう意味じゃないです」
俺はとうとう笑った。
戸地さんも少しだけ笑った。
*
消防の確認が終わるまで、施設には戻れなかった。
夕方近くになって、山田さんの電話が鳴った。
室長だった。
「はい」
山田さんの背筋が伸びる。
「はい」
少し離れていても声が聞こえる。
「いえ、怪我人は」
間。
「はい」
さらに間。
「申し訳ありません」
長い。
室長が何を言っているのかは聞こえない。
山田さんは何度も頭を下げていた。
電話なのに。
やがて切れた。
「何て?」
俺が聞いた。
山田さんが携帯をしまう。
「帰ったら話があるって」
「でしょうね」
戸地さんが言った。
「あと」
山田さんが施設を見る。
「明日、前田さん来るって」
「前田さん?」
「うん」
少し嬉しくなった。
「なんで?」
「正式に調査入れることになった」
山田さんがさっきの扉がある建物を見る。
「事故のおかげで、ガス漏れの場所を調べることになったから」
「まさか」
「地下」
俺は黙った。
山田さんが笑う。
「入れるね」
この人は反省しているのだろうか。
「山田さん」
戸地さんが言った。
「何?」
「次、煙草吸ったら殺します」
「はい」
今度は即答だった。
*
帰りの車。
戸地さんは後部座席でずっと毛先を触っていた。
「切るの?」
俺が聞いた。
「これじゃ無理でしょ」
「どれくらい?」
「短くする」
少し想像した。
今は肩まである。
「似合うんじゃない?」
「まだ切ってないのに?」
「なんとなく」
戸地さんが眼鏡越しに俺を見る。
「変だったら境くんのせいにする」
「なんで僕?」
「似合うって言ったから」
「山田さんのせいでしょ」
前から声がした。
「俺?」
俺と戸地さんが同時に言った。
「山田さんは黙っててください」
「はい」
今日はよく返事をする。
窓の外を見る。
田んぼが流れていく。
その下に天然ガスがある。
その下を、知らない地下通路が走っている。
そして、その近くで境界が少しずつ動いている。
十七ミリ。
昨日まで、笑える数字だった。
今はもう、笑えなかった。




