境界は線じゃない
昼飯はコンビニだった。
山田さんはおにぎりを二つ。
戸地さんはサンドイッチ。
俺は弁当を買った。
車の中で食べる。
「出張って、もっと違うイメージでした」
「どういうの?」
山田さんがおにぎりの袋を開ける。
「現地の名物食べたり」
「観光じゃないからね」
「せっかく千葉まで来たのに」
「東京から一時間ちょっとだよ」
それもそうだ。
後ろを見る。
戸地さんはサンドイッチを食べながら、タブレットを見ていた。
「何見てるの?」
「さっきの測量結果」
「飯の時くらい休めば?」
「気になる」
戸地さんが画面を拡大した。
「山田さん」
「ん?」
「次の境界点も見たいです」
「なんで?」
「ここだけ動かす意味が分からないから」
山田さんがおにぎりを食べながら頷いた。
「だよね」
俺には分からない。
「一個動かしたら駄目なんですか?」
二人が俺を見る。
「何ですか」
山田さんが言った。
「境ちゃん、人文地理だっけ」
「そうです」
「地図好き?」
「好きです」
「じゃあ考えて」
食事中まで教育されるらしい。
俺はタブレットを見る。
二つの自治体の境界。
そこに点がいくつも並んでいる。
「この点と、この点を結んで……」
「あ」
気づいた。
「この点だけずらすと、前後の線が折れ曲がるんですね」
「そう」
山田さんが最後のおにぎりを口に入れた。
「だから次を見る。ほかの点も同じ側へ動いていたら、もっと広い範囲の線が変わってる」
*
二つ目の点は、そこから一キロほど離れていた。
今度は用水路の脇だった。
戸地さんが測る。
俺は機材を運ぶ。
少しだけ役割ができた。
「出ました」
「いくつ?」
山田さんが聞く。
「三十四ミリ」
「え?」
俺は聞き返した。
「三・四センチ?」
「うん」
「さっきの倍じゃん」
戸地さんはもう一度測った。
同じだった。
山田さんが地図を見る。
「次」
*
三つ目。
七十一ミリ。
四つ目。
百二十六ミリ。
「十二・六センチ?」
俺はしゃがんで杭を見る。
もう笑えなかった。
「増えてません?」
「増えてるね」
山田さんは煙草をくわえた。
火はつけない。
「なんで?」
「それを調べてる」
「さっきからそればっかりですね」
「調査ってそういうもんだよ」
戸地さんは少し離れた場所で地面を見ていた。
「境くん」
「何?」
「ちょっと、こっち来て」
行ってみる。
「ここ」
「何?」
「跡がある」
草の間に、何かを引きずったような跡が残っている。
「杭を動かした跡?」
「たぶん」
「こんなことする?」
「してるみたい」
確かに。
戸地さんが眼鏡を上げた。
昨日会った時より、ずっと喋るようになっている。
というより、仕事になると人が変わる。
「戸地さん」
「何?」
「昨日、おとなしい人だと思ってた」
「どういう意味?」
「いや」
「今は?」
少し考えた。
「怖い」
「境くん」
「はい」
「じゃあ、その機械お願い」
「はい」
怒らせたらしい。
*
五つ目の点で、ずれは二百ミリを超えた。
二十一・八センチ。
全部、西側へ動いている。
東浜市が広がる方向だった。
山田さんが地図に数字を書き込んでいく。
十七。
三十四。
七十一。
百二十六。
二百十八。
点を結ぶ。
境界線が少しずつ膨らんでいく。
ほんの少しだ。
地図で見れば、ほとんど分からない。
「これだけ?」
俺が聞いた。
「何が?」
「二十センチ広がったところで、大して変わらないですよね」
山田さんがこちらを見る。
「また笑う?」
「笑ってません」
「進歩したね」
「一日で成長しました」
戸地さんが小さく笑った。
山田さんが地図を指した。
「確かに、地面だけ見れば大した面積じゃない」
「ですよね」
「でも境界って、地面に線が引いてあるだけじゃないから」
山田さんが指を下へ向けた。
「下?」
「そう」
「地下?」
「境界は線じゃない」
山田さんが言った。
「三次元なんだ」
俺は足元を見る。
何もない。
ただの地面だ。
その下に、天然ガスがある。
「地下も東浜市になるってことですか?」
「単純にそういう話でもない。でも、行政区域が変われば、関係する権利や金の流れが変わることはある」
「それで二十センチ?」
「二十センチを何キロ続ける?」
言われて地図を見る。
境界はまだ先まで続いている。
「それに」
山田さんが赤い線を指した。
「俺が気になってるのはこっち」
赤い線の少し先に、小さな四角がある。
「何ですか、これ」
「ガスの採取施設」
俺は地図と数字を見比べた。
動かされた点は、少しずつそこへ近づいていた。
「まさか」
山田さんが笑う。
「その、まさかを調べるのが仕事」
*
午後三時。
東浜市役所へ行った。
小さな会議室に通された。
午前中に会った企画財政課の男と、その上司らしい男が座っている。
山田さんが測量結果を机に置いた。
「五か所、確認しました」
「はい」
「全部ずれてます」
上司の男が資料を見る。紙を一枚めくる音だけが、狭い会議室にやけに響いた。
「地盤沈下では?」
「可能性は低いですね」
「この地域では珍しいことではありません」
「杭だけ動く地盤沈下ってあります?」
男が黙った。
山田さんの声は穏やかだった。
怒っているようには見えない。
それが逆に怖い。
「過去三年分の工事記録をいただけますか」
「工事?」
「境界周辺です。道路、用水路、ガス管、全部」
「すぐには……」
「明日でも構いません」
「確認します」
「あと、あの採取施設」
男の表情が変わった。
ほんの少しだった。
でも分かった。
山田さんも気づいたらしい。
「施設が何か?」
「中を見せてもらえます?」
「民間の施設ですので」
「市の関連会社ですよね」
「関連はありますが、市の施設ではありません」
「そうですか」
山田さんが資料を閉じた。
「じゃあ、直接お願いしてみます」
会議はそれで終わった。
*
市役所を出た。
「怪しい」
俺が言った。
「何が?」
山田さんが聞く。
「今の人」
「どこが?」
「施設って言った時、顔変わりました」
「よく見てるじゃん」
「人文地理ですから」
「それ関係ある?」
「ないです」
戸地さんが笑った。
駐車場へ向かう。
山田さんが煙草を取り出した。
今度は火をつける。
「明日、あそこ行くから」
「ガスの施設ですか?」
「うん」
「入れてくれます?」
「さあ」
「断られたら?」
「その時考える」
適当だ。
戸地さんが言った。
「山田さん」
「ん?」
「まだあります」
タブレットを見せる。
午前中の測量結果と、古い地図が重ねられている。
「何?」
「境界だけじゃないです」
戸地さんが画面を拡大した。
地下を通る配管の図面だった。
一本の線が境界近くまで伸びている。
「この配管」
戸地さんは画面を切り替え、古い配管図を指でなぞった。
「古い図面だと、ここで終わってます」
「今は?」
「衛星写真だと、建物が増えてます」
山田さんが煙草を止めた。
「いつ?」
「二年前」
「境界が動き始めた時期と近いな」
俺は画面を見る。
「建物の下って、どうなってるんですか?」
二人とも答えなかった。
「地下施設とか?」
冗談で言った。
山田さんが煙草を吸う。
「あるかもね」
「え?」
「行けば分かる」
「明日?」
「明日」
俺はため息をついた。
「普通に地図作る部署に行きたかったな」
戸地さんが隣で言った。
「私も」
「戸地さんは測量好きだからいいじゃん」
「測量は好き」
少し間を置く。
「怪しい地下施設に入るのが好きなわけじゃないから」
「そりゃそうだ」
山田さんだけが笑っていた。
「大丈夫、大丈夫」
「何が大丈夫なんですか」
「よくあるから」
「地下施設が?」
「あるよ」
「ないでしょ」
山田さんは煙草を携帯灰皿へ入れた。
「よくあるんだ、これが」
冗談だと思った。
この時までは。




