十七ミリ
翌朝、俺は七時半に神田へ着いた。
眠い。
昨日、入職したばかりだ。
今日はもう出張らしい。
四階へ上がると、山田さんがいた。
「おはよう、境ちゃん」
「おはようございます」
「早いね」
「八時集合って言ったじゃないですか」
「俺、七時五十分くらいに来ようと思ってた」
教育係がそれでいいのか。
戸地さんはもう来ていた。
昨日と同じ眼鏡。
今日はスーツではなく、紺色の作業着を着ている。
「あ、おはよう」
「おはよう。早いね」
「初めての現場なので」
*
車は白いワゴンだった。
後ろには測量機器や三脚が積んである。
運転は山田さん。
俺が助手席。
戸地さんは後ろに座った。
高速道路に入ってしばらくすると、山田さんが言った。
「昨日の十七ミリ、覚えてる?」
「忘れるほど時間経ってません」
「じゃあ問題。なんで十七ミリ動いたと思う?」
「地殻変動とか」
「うん」
「地盤沈下」
「うん」
「測量誤差」
「それもある」
「じゃあ、そのどれかじゃないんですか」
「それを調べに行く」
なるほど。
ようやく普通の仕事に聞こえた。
後ろから戸地さんが言った。
「境界標そのものが動いた可能性もありますよね」
山田さんがバックミラーを見る。
「あるね」
「周囲も確認した方がいいですか」
「そのつもり」
会話が分からない。
昨日のおとなしい人はどこへ行った。
「戸地さん、詳しいね」
「大学で測量やってたから」
「人文地理じゃないの?」
「違うよ」
「そうなんだ」
「境くん、測量は?」
「授業で少し」
「少し?」
「機械を触ったことがある程度」
戸地さんが少し考えた。
「大丈夫、心配しないで」
「何が?」
「私が教えるから」
小さな声だったけれど、迷いのない返事だった。
*
海が近づくにつれて、景色が平らになった。
田んぼ。
用水路。
低い住宅。
遠くに防風林が見える。
山田さんが窓の外を指した。
「この辺、地下に天然ガスがある」
「天然ガス?」
「水に溶けてるんだよ。地下の水を汲み上げて、そこからガスを取る」
「こんなところで?」
「こんなところで」
知らなかった。
ガス田というから、もっと荒野に巨大な設備が並んでいるものを想像していた。
「地下水を汲み上げるから、地盤沈下にも気を使う」
「じゃあ十七ミリって、それじゃないですか」
「だったら楽なんだけどね」
山田さんはそれ以上言わなかった。
道路脇に小さな施設が見えた。
配管。
タンク。
フェンス。
その向こうには普通の田んぼが続いている。
地上は何でもない。
その下にガスがある。
少し不思議だった。
*
車は農道脇の空き地に止まった。
二人の男が待っていた。
一人は作業着。
もう一人はスーツだった。
「お待ちしてました」
山田さんが名刺を出す。
俺と戸地さんも慌てて続いた。
相手の名刺には、
『東浜市 企画財政課』
とある。
東浜市。
隣は西浦町。
問題の境界は、その間にあった。
「こちらです」
案内されたのは、道路脇の草むらだった。
コンクリートの小さな杭がある。
「これですか?」
俺が聞く。
「そう」
山田さんがしゃがんだ。
杭の頭には十字が刻まれている。
見たところ、普通の古い杭だ。
「これが十七ミリ?」
「正確には、この点」
山田さんが十字の中心を指した。
「杭は境界標。この十字の中心が境界点」
「境界点?」
「境界の位置を示す点。杭はその目印」
俺もしゃがむ。
十七ミリ。
目で見ても分からない。
「じゃ、戸地ちゃん」
「はい」
山田さんが車を指した。
「やってみようか」
戸地さんが機材を下ろした。
三脚を立てる。
機械を載せる。
動きが速い。
迷いがない。
さっきまで俺に「教えるから」と言っていた人と同じとは思えない。
「戸地さん、慣れてるね」
「まあ」
「大会とか出てた?」
手が止まった。
「なんで?」
「いや、なんとなく」
山田さんが笑った。
「境ちゃん、知らないの?」
「何をですか」
「戸地ちゃん、大学の測量競技会の記録持ってるよ」
「え?」
戸地さんが山田さんを見る。
「なんで知ってるんですか」
「履歴書」
「見たんですか」
「教育係だからね」
「最悪」
初めて戸地さんが少し怖い顔をした。
「何秒?」
俺が聞いた。
「言わなくていいです」
「十・三秒」
山田さんが答えた。
「山田さん!」
声が大きい。
昨日のおとなしい人はいなくなった。
「何を十・三秒でやるの?」
「距離測るやつ」
「それ説明になってます?」
「細かいことは戸地ちゃんに聞いて」
戸地さんは無言で機械を調整した。
速い。
「境くん」
「はい」
「そこ持って」
「これ?」
「違う。それじゃない」
「これ?」
「それ」
少し怖い。
でも、楽しそうだった。
*
測量は昼前まで続いた。風が田んぼを渡るたび、草が一斉に傾いた。日陰はほとんどない。
俺はほとんど役に立たなかった。
杭を見ても、道路を見ても、田んぼを見ても、何も分からない。
十七ミリなんてなおさらだ。
戸地さんは何度も数字を確認していた。
途中から口数が減った。
山田さんも煙草を吸わずに待っている。
やがて戸地さんが顔を上げた。
「山田さん」
「出た?」
「はい」
「どっち?」
戸地さんが杭を見る。
「西です」
「いくつ?」
「十七」
山田さんがしゃがんだ。
「やっぱりか」
俺は二人を見る。
「昨日のデータと同じってことですか?」
「そう」
「じゃあ測量ミスじゃない」
「今のところはね」
「地盤沈下?」
戸地さんが首を振った。
「それなら、ちょっと変です」
「何が?」
戸地さんは周囲を指した。
「周りの基準点は以前の記録と合ってます。この杭だけ、西へずれてるんです」
俺は見る。
道路。
田んぼ。
草。
杭。
何が変なのか分からない。
山田さんが立ち上がった。
「境ちゃん」
「はい」
「地面が動いたなら、普通はどうなると思う?」
「周りも動く」
「そう」
山田さんが杭を指した。
「でも、こいつだけ動いてる」
「じゃあ……」
「誰かが動かした?」
戸地さんが言った。
山田さんは答えなかった。
東浜市の職員を見る。
職員は少し離れたところで電話をしていた。
「山田さん」
俺は声を落とした。
「十七ミリですよ?」
「そうだね」
「わざわざ?」
「だから言っただろ」
山田さんが笑った。
「十七ミリを笑うなって」
そのとき、戸地さんが杭の横にしゃがんだ。
土を指で払っている。
「どうしたの?」
俺も覗き込む。
杭の根元。
土に隠れていたところに、小さな傷があった。
新しい。
戸地さんが言った。
「これ」
山田さんの顔から笑いが消えた。
「境ちゃん」
「はい」
「今日は少し遅くなるかも」
「なんでですか」
山田さんは遠くに見える配管を見た。
「十七ミリで済まないかもしれないから」




