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境界調整室 ~その境界、どなたか動かしましたね?~  作者: 大神みや
第一案件 十七ミリの境界

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境界調整室

地図を見るのが昔から好きだった。


小学生の頃は、家にあった道路地図を意味もなく眺めていた。


知らない町。知らない川。山の中を曲がりながら続く細い道。


ここへ行ったら何があるんだろう。


それだけで何時間でも見ていられた。


大学では人文地理を学んだ。


地図を作る仕事がしたかった。


それで、この仕事を選んだ。


同期の中には、希望通り地図を作る部署へ配属された者もいた。


俺は違った。


辞令をもう一度見る。


境界調整室。


組織図に載ってない。


何をするところなのか聞いてみた。


境界を調整する部署です。


そう説明された。


それは名前を見れば分かる。


*


指定された住所は千代田区神田だった。官庁街からは外れたところだ。


駅から少し歩いたところに、古い雑居ビルがあった。


四階建てかと思ったら、五階まである。


エレベーターはない。


一階には小さな居酒屋が入っていた。


看板には、


『ボーダー』


と書いてある。


境界調整室の入っているビルに、ボーダー。


偶然だろうか。


入口脇に小さな管理人室があった。


中にいた男がこちらを見た。


六十代くらいだろうか。


制服の上からでも分かるくらい体が大きい。


というより、太い。


腕が俺の脚くらいある。


「境界調整室?」


「はい」


「四階」


「あ、ありがとうございます」


男はそれだけ言って新聞へ目を戻した。


階段を上がる。


二階。


『田中会計事務所』


普通だ。


三階。


聞いたことのない会社が入っている。


これも普通だ。


四階まで上がった。


少し息が切れた。


廊下の突き当たりに扉がある。


小さなプレートに、


『境界調整室』


と書いてあった。


本当にあった。


扉の前に女性が立っていた。


俺と同じように、プレートを見ている。


肩までの髪。


眼鏡。


紺色のスーツ。


手には新品らしい鞄を持っていた。


「あの」


声をかけると、女性が振り向いた。


「はい」


「境界調整室ですか?」


女性はもう一度プレートを見た。


「たぶん」


たぶん。


「今日からですか?」


「はい」


「僕もです」


少し安心した。


どうやら同期らしい。


「境守です。よろしくお願いします」


「あ、戸地広子です。よろしくお願いします」


小さな声だった。


おとなしそうな人だ。


「戸地さんも東京勤務希望だったんですか?」


「いえ。大学が茨城だったので、東京はまだ慣れなくて」


「そうなんだ」


戸地さんはもう一度、扉のプレートを見た。


「入りましょうか」


「はい」


*


中は思っていたより普通の事務所だった。


机が十ほど並んでいる。


壁には日本地図。


棚には地形図やファイルがぎっしり詰まっていた。


パソコンもある。


プリンターもある。


当たり前だが、役所の事務所だった。


奥の席に五十代くらいの男が座っていた。


こちらを見る。


「境君と戸地君?」


「はい」


二人で答えた。


「室長です。よろしく」


室長は立ち上がらなかった。


「よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


室長は俺の辞令を見た。


それから俺を見る。


「境君」


「はい」


「境界調整室」


「はい」


少し間があった。


「出来すぎだね」


やっぱり言われた。


「あの、名前で配属決めてませんよね?」


室長が笑った。


「まさか」


なぜ少し間があった。


「山田」


室長が呼んだ。


奥の机から男が立ち上がった。


三十歳前後だろうか。


ワイシャツの袖をまくっている。


「はいはい」


「新人」


「聞いてます」


男がこちらへ来た。


「山田です。よろしく。俺が教育係みたいなもんだから、分かんないことあったら聞いて」


「よろしくお願いします」


「お願いします」


「そんな緊張しなくていいよ。公務員だから」


意味が分からない。


「前田」


山田さんが呼ぶ。


窓際の席から女性が顔を上げた。


綺麗な人だった。


思わず見てしまった。


背筋が伸びている。


立ち上がると、すらっとしていた。


「前田です。よろしくね」


「境です。よろしくお願いします」


少し声が上ずった。


横を見ると、戸地さんが俺を見ていた。


「何?」


「なんでもない」


戸地さんは視線を外して、眼鏡を直した。


「席はそこ」


山田さんが二つ並んだ机を指した。


俺と戸地さんの机だった。


「隣なんですね」


戸地さんが言う。


「みたいだね」


机の上にはパソコンと電話。


新品の文房具。


どこにでもある新入職員の机だ。


少し安心した。


ここで地図を作るのかもしれない。


部署の名前が変わっているだけで、やることは普通なのだろう。


椅子に座る。


戸地さんも隣に座った。


「境君」


山田さんがファイルを持ってきた。


「はい」


「これ読んどいて」


渡された。


『境界調整業務取扱要領』


分厚い。


開く。


知らない言葉ばかりだった。


行政界。


筆界。


河川境界。


海上境界。


基準点。


境界未定地。


「山田さん」


「ん?」


「境界を調整するって、具体的に何するんですか?」


山田さんがこちらを見る。


「境界を調整する」


「それ、さっきも聞きました」


山田さんが笑った。


「まあ、そのうち分かるよ」


「今知りたいんですけど」


「じゃあ、ちょうどいいか」


山田さんが自分の机へ戻った。


別のファイルを持ってくる。


机の上に広げた。


地図だった。


千葉県。


海に近い二つの自治体の境界付近に赤い線が引かれている。


「ここ」


山田さんが指した。


「何か分かる?」


俺は地図を見る。


隣から戸地さんも覗き込んだ。


近い。


少しだけいい匂いがした。


「市町村境ですか?」


「そう」


「それが?」


山田さんが赤い線を指でなぞった。


「動いてる」


「はい?」


「境界が動いてる」


意味が分からない。


「どれくらいですか?」


戸地さんが聞いた。


山田さんが答えた。


「十七ミリ」


一瞬、静かになった。


俺は思わず笑った。


「十七ミリ?」


「そう」


「一・七センチですよね?」


「そうだよ」


「誤差じゃないんですか?」


山田さんの顔から笑みが消えた。


「境ちゃん」


初日なのに、もうちゃん付けになっている。


「はい」


山田さんは地図を指で叩いた。


「十七ミリを笑うな」


「……はい」


隣を見る。


戸地さんは地図を真剣に見ていた。


笑っているのは俺だけだった。


山田さんがファイルを閉じる。


「明日、現地行くから」


「誰がですか?」


「俺と、二人」


俺と戸地さんは顔を見合わせた。


「現地って、何するんですか?」


「測る」


「十七ミリを?」


「十七ミリを」


山田さんは自分の席へ戻っていった。


戸地さんが小さな声で言った。


「なんか、大変なところに来たのかもね」


「……そうかも」


このときの俺は、まだ知らなかった。


十七ミリくらいで驚いていた方が、ずっと幸せだったということを。


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