境界調整室
地図を見るのが昔から好きだった。
小学生の頃は、家にあった道路地図を意味もなく眺めていた。
知らない町。知らない川。山の中を曲がりながら続く細い道。
ここへ行ったら何があるんだろう。
それだけで何時間でも見ていられた。
大学では人文地理を学んだ。
地図を作る仕事がしたかった。
それで、この仕事を選んだ。
同期の中には、希望通り地図を作る部署へ配属された者もいた。
俺は違った。
辞令をもう一度見る。
境界調整室。
組織図に載ってない。
何をするところなのか聞いてみた。
境界を調整する部署です。
そう説明された。
それは名前を見れば分かる。
*
指定された住所は千代田区神田だった。官庁街からは外れたところだ。
駅から少し歩いたところに、古い雑居ビルがあった。
四階建てかと思ったら、五階まである。
エレベーターはない。
一階には小さな居酒屋が入っていた。
看板には、
『ボーダー』
と書いてある。
境界調整室の入っているビルに、ボーダー。
偶然だろうか。
入口脇に小さな管理人室があった。
中にいた男がこちらを見た。
六十代くらいだろうか。
制服の上からでも分かるくらい体が大きい。
というより、太い。
腕が俺の脚くらいある。
「境界調整室?」
「はい」
「四階」
「あ、ありがとうございます」
男はそれだけ言って新聞へ目を戻した。
階段を上がる。
二階。
『田中会計事務所』
普通だ。
三階。
聞いたことのない会社が入っている。
これも普通だ。
四階まで上がった。
少し息が切れた。
廊下の突き当たりに扉がある。
小さなプレートに、
『境界調整室』
と書いてあった。
本当にあった。
扉の前に女性が立っていた。
俺と同じように、プレートを見ている。
肩までの髪。
眼鏡。
紺色のスーツ。
手には新品らしい鞄を持っていた。
「あの」
声をかけると、女性が振り向いた。
「はい」
「境界調整室ですか?」
女性はもう一度プレートを見た。
「たぶん」
たぶん。
「今日からですか?」
「はい」
「僕もです」
少し安心した。
どうやら同期らしい。
「境守です。よろしくお願いします」
「あ、戸地広子です。よろしくお願いします」
小さな声だった。
おとなしそうな人だ。
「戸地さんも東京勤務希望だったんですか?」
「いえ。大学が茨城だったので、東京はまだ慣れなくて」
「そうなんだ」
戸地さんはもう一度、扉のプレートを見た。
「入りましょうか」
「はい」
*
中は思っていたより普通の事務所だった。
机が十ほど並んでいる。
壁には日本地図。
棚には地形図やファイルがぎっしり詰まっていた。
パソコンもある。
プリンターもある。
当たり前だが、役所の事務所だった。
奥の席に五十代くらいの男が座っていた。
こちらを見る。
「境君と戸地君?」
「はい」
二人で答えた。
「室長です。よろしく」
室長は立ち上がらなかった。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
室長は俺の辞令を見た。
それから俺を見る。
「境君」
「はい」
「境界調整室」
「はい」
少し間があった。
「出来すぎだね」
やっぱり言われた。
「あの、名前で配属決めてませんよね?」
室長が笑った。
「まさか」
なぜ少し間があった。
「山田」
室長が呼んだ。
奥の机から男が立ち上がった。
三十歳前後だろうか。
ワイシャツの袖をまくっている。
「はいはい」
「新人」
「聞いてます」
男がこちらへ来た。
「山田です。よろしく。俺が教育係みたいなもんだから、分かんないことあったら聞いて」
「よろしくお願いします」
「お願いします」
「そんな緊張しなくていいよ。公務員だから」
意味が分からない。
「前田」
山田さんが呼ぶ。
窓際の席から女性が顔を上げた。
綺麗な人だった。
思わず見てしまった。
背筋が伸びている。
立ち上がると、すらっとしていた。
「前田です。よろしくね」
「境です。よろしくお願いします」
少し声が上ずった。
横を見ると、戸地さんが俺を見ていた。
「何?」
「なんでもない」
戸地さんは視線を外して、眼鏡を直した。
「席はそこ」
山田さんが二つ並んだ机を指した。
俺と戸地さんの机だった。
「隣なんですね」
戸地さんが言う。
「みたいだね」
机の上にはパソコンと電話。
新品の文房具。
どこにでもある新入職員の机だ。
少し安心した。
ここで地図を作るのかもしれない。
部署の名前が変わっているだけで、やることは普通なのだろう。
椅子に座る。
戸地さんも隣に座った。
「境君」
山田さんがファイルを持ってきた。
「はい」
「これ読んどいて」
渡された。
『境界調整業務取扱要領』
分厚い。
開く。
知らない言葉ばかりだった。
行政界。
筆界。
河川境界。
海上境界。
基準点。
境界未定地。
「山田さん」
「ん?」
「境界を調整するって、具体的に何するんですか?」
山田さんがこちらを見る。
「境界を調整する」
「それ、さっきも聞きました」
山田さんが笑った。
「まあ、そのうち分かるよ」
「今知りたいんですけど」
「じゃあ、ちょうどいいか」
山田さんが自分の机へ戻った。
別のファイルを持ってくる。
机の上に広げた。
地図だった。
千葉県。
海に近い二つの自治体の境界付近に赤い線が引かれている。
「ここ」
山田さんが指した。
「何か分かる?」
俺は地図を見る。
隣から戸地さんも覗き込んだ。
近い。
少しだけいい匂いがした。
「市町村境ですか?」
「そう」
「それが?」
山田さんが赤い線を指でなぞった。
「動いてる」
「はい?」
「境界が動いてる」
意味が分からない。
「どれくらいですか?」
戸地さんが聞いた。
山田さんが答えた。
「十七ミリ」
一瞬、静かになった。
俺は思わず笑った。
「十七ミリ?」
「そう」
「一・七センチですよね?」
「そうだよ」
「誤差じゃないんですか?」
山田さんの顔から笑みが消えた。
「境ちゃん」
初日なのに、もうちゃん付けになっている。
「はい」
山田さんは地図を指で叩いた。
「十七ミリを笑うな」
「……はい」
隣を見る。
戸地さんは地図を真剣に見ていた。
笑っているのは俺だけだった。
山田さんがファイルを閉じる。
「明日、現地行くから」
「誰がですか?」
「俺と、二人」
俺と戸地さんは顔を見合わせた。
「現地って、何するんですか?」
「測る」
「十七ミリを?」
「十七ミリを」
山田さんは自分の席へ戻っていった。
戸地さんが小さな声で言った。
「なんか、大変なところに来たのかもね」
「……そうかも」
このときの俺は、まだ知らなかった。
十七ミリくらいで驚いていた方が、ずっと幸せだったということを。




