猛暑日と猫吸いの力学(生徒会書記・2年 如月 涼音)
7月下旬。終業式はとっくに終わったというのに、学校は容赦なく夏期補習という名の拘束時間を課してくる。
午後3時、湿気を孕んだ熱風が吹き抜ける生徒会室。
私は紙パックコーヒーのストローをくわえながら、デスクで狂ったようにキーボードを叩いている同級生の横顔を眺めていた。
生徒会副会長・方正律。
室温は生徒会規約に定められた28度設定。汗ひとつかいていない涼しげな顔で、ネクタイを直角に締め上げ、猫背のねの字もない直立不動の姿勢で座っている。
「……方正くん」
「なんの用だ。キーボードの打鍵音が君の作業用BGMの邪魔をしているなら、静音キーボードへの換装を検討するが」
「ううん。ただ見てただけ。方正くん、背中の毛が逆立ってる」
「毛など逆立っていない」
ピシャリと撥ねつけるような声音。
全校生徒は、この氷のような態度を「四角四面のプリンス」と呼んで遠巻きにしているらしい。
でも、同じ生徒会役員として1年半近く隣のデスクにいる私から見れば違う。
テリトリーに異物が侵入して、耳をペタンと倒して「フシャーッ!」と威嚇している警戒心の強い猫にしか見えないのだ。
「方正くん、ちょっと吸っていい?」
「断る」
0.2秒の即答。
メガネの奥の切れ長な瞳が、ギロリと私を射抜く。
「人間が人間を吸引する行為には、生物学的にも衛生的にも一切の合理的妥当性がない。特にこの気温下における他者との呼気および体温の接触は、熱中症リスクを徒に上昇させるだけだ」
「えー。方正くん、日干ししたシーツとミントの匂いするから、吸うと頭がすっきりするのに」
「僕は消臭芳香剤ではない。……それより、秋桜祭(文化祭)の有志参加団体のエントリーシートだが」
方正くんはプリントの束をトン、トン、と机の角で揃え、私の前に滑らせてきた。
余白、角度、完全に机の縁と平行。
「ダンス部と軽音部のリハーサル希望時間が完全に重複している。調整案として、第2多目的室と体育館の音響干渉シミュレーションを作成した。議事録のフォーマットは事前に作成しておいたから、君はそこに決定事項の数値を入力するだけでいい」
「……方正くん、これ昨日の夜作ったの?」
「所要時間は42分18秒だ。睡眠時間への影響は軽微に留まる」
嘘ばっかり。
目の下に、うっすらと青い隈ができている。
夏期補習の合間、自分の勉強だけでも満点を維持しているのに、生徒同士のトラブルを未然に防ぐために、誰も頼んでいない裏方の根回し資料を一人で完璧に仕上げてくるのだ。
頼られたいわけじゃない。感謝されたいわけでもない。
ただ、ルールや予定が狂うのが気持ち悪くて、誰かが理不尽に泣くという「世界のバグ」を放っておけないから、一人で勝手に背負い込んでキーボードを叩いている。
……やっぱり、放っておけない野良猫そのものだ。
「はい、これ」
私がバッグから取り出して机の上に置いたのは、アルミホイルに包まれた直方体の物体。
「……なんだ、これは」
「冷やした一口羊羹。糖分とカリウムの補給。方正くん、午前中からずっと頭フル回転で低血糖起こしてるでしょ」
方正くんは羊羹をまじまじと見つめた。
そして、胸ポケットから定規を取り出し、包みの上からツンツンと測り始めた。
「……縦25ミリ、横60ミリ、高さ15ミリ。黄金比に近い直方体だ」
「でしょ? 歪んでないよ」
「しかし、間食の摂取は補習後の集中力を一時的に――」
「いいから食べなさい。頭のいい猫ちゃんは、ちゃんと栄養補給しないと毛並みが悪くなるよ」
「だから、僕は猫ではないと――」
言いながらも、方正くんは素直にアルミホイルを丁寧に四角く折りたたみ、羊羹を一口かじった。
ほんの少しだけ、眉間のシワが緩む。
と、その時――
ガララッ!!
けたたましい音とともに生徒会室の引き戸が開き、強烈な熱気とともに巨大な影が飛び込んできた。
「あっっっっっつーーーーー!!! 死ぬ! 死ぬぞ律、涼音! 運動場と体育館を往復したら人間の形状を維持できん!」
額にタオルを巻き、首からメガホンを提げた男――生徒会長・天王寺司だ。
部活動の合宿申請のヒアリングと熱中症対策の巡回という名の「外回り」から帰ってきたらしい。ワイシャツの袖をまくりあげた姿は、まるで夏合宿を終えたばかりの甲子園球児である。
会長はデスクにあったうちわをひったくると、バサバサと猛烈な勢いで扇ぎながら、方正くんの机にドサリと寄りかかった。
「おい律、冷房の設定温度25度に下げてくれ! 俺の体内沸点が100度を超えそうだ!」
その瞬間、方正くんの眉毛がピキッと直角に跳ね上がった。
「会長。生徒会室入室時の動線が斜め40度乱れています。さらに、その大量の汗が気化熱を奪う以前に僕の机の表面に飛散するリスクを考慮してください。第一に、生徒会規約における冷房管理規定は28度厳守。勝手な設定変更は電力需給逼迫警報に対する重大な反逆行為です。……あと、僕の半径1メートル以内に近づかないでください。体感温度が3度上昇します」
「うわっ、出た! 威嚇すんなよ! 相変わらずお前は氷点下の塩対応だな!」
ガハハと豪快に笑いながら、天王寺先輩は方正くんの手元に目を留めた。
「ん? なんだその黒い四角いの。羊羹か? うまそうだな、半分くれ!」
「嫌です」
方正くんは瞬時に羊羹の残りを口の中に放り込み、ハムスターのように頬袋を膨らませてモグモグと咀嚼した。奪われまいとする動きの俊敏さ、完全に餌を取られそうになった猫である。
「あっ、一口で食いやがった! 独り占めは良くないぞ律!」
「グルコースの……緊急補給だ……(もぐもぐ)」
「喋るなら飲み込んでからにしろ! ほら麦茶やるから!」
「会長の注いだお茶は表面張力の限界を超えてこぼれるから触らないでください!」
ギャーギャーと騒がしくやり合う、汗だくの大型犬(会長)と、毛を逆立てて威嚇する猫(副会長)。
「ふふっ」
私は思わず吹き出した。
「涼音、お前からも律に言ってくれよ!」
「会長、羊羹ならまだありますから。……でも方正くん、さっきのダンス部と軽音部の調整案、会長が直接話つけてきてくれたら一発で通るんじゃない?」
「む? なんだ、トラブルか? 任せろ、俺の筋肉と人脈で円満解決してやる!」
「……腕力による解決は非論理的ですが、会長の無駄に高い対人パラメータを活用することには一定の合理性を認めます」
口を尖らせながらも、方正くんはきっちりまとめた資料を会長の胸元へペシッと押し当てた。
冷房28度の、ちょっと暑くて、たまらなく騒がしい夏の生徒会室。
私はデスク帳の端に、ちっちゃな四角い猫の落書きを描きながら、やっぱりこの居場所は悪くないな、と静かに目を細めた。




