盤上の完全情報と四角い余暇(囲碁将棋部部長・2年 加賀見 怜司)
高校の囲碁将棋部といえば、地味、暗い、部員不足の三重苦が相場だ。
だが我が校の囲碁将棋部には、起死回生のウルトラCが存在する。はずだった。
「方正! 頼む、お前のその頭脳を我が部に貸してくれ! お前が盤の前に座るだけで、全国大会への最短ルートが開けるんだよ!」
放課後の生徒会室。
俺――囲碁将棋部部長・加賀見怜司は、マイ盤と駒袋を両手に抱え、副会長デスクへ身を乗り出していた。
方正律。
学年主席、完全無欠の計算力、ブレない論理思考。
こいつの脳内リソースがあれば、将棋などスーパーコンピュータ並みの速度で完了するはずだ。こいつを大会のエースに据えれば、団体戦の枠は埋まり、全国も夢じゃない。
律は定規で書類の余白を測る手を止め、銀縁メガネの奥から俺を冷ややかに見上げた。
「加賀見くん。勧誘活動は部活動規約第8条に則り、所定の掲示板および新入生勧誘期間内に限定されている。この時期の強引な直談判は手続きの瑕疵だ」
「堅いこと言うな! 将棋だぞ? 9×9のマス目、寸分の狂いもない格子状の宇宙! お前、絶対こういう四角四面な世界、大好物だろ!?」
律の眉が、わずかにピクリと動いた。
食いついた。俺は見逃さない。
「……確かに、将棋および囲碁は『完全情報確定ゲーム』だ。サイコロのような運の要素が介在せず、すべての情報が盤上に開示されている点において、極めて論理的で美しい構造を持っていることは否定しない」
「だろ!? ほら、一局指そうぜ! お前の頭脳なら、普通の定跡なんて一晩で暗記できる!」
俺は鼻息荒く、机の上に折りたたみ式の将棋盤を広げようとした。
だが、律の手がすっと伸び、盤の端を人差し指で制止した。
「だが、入部は断る」
「な、なんでだよ!? 美しい構造なんだろ!?」
「勝敗という概念に、リソースを割く実益がないからだ」
律は至極平然と言い放った。
「相手のミスを誘い、玉将を詰める。その結果得られるのは『勝利』という一時的かつ主観的な優越感のみだ。盤上の駒をいくら最適配置したところで、現実世界の書類の乱れが整うわけでも、校内の破損箇所が修復されるわけでもない。現実の課題解決に寄与しない閉じた遊戯に、僕の放課後を投じる論理的妥当性を見出せない」
「実益って……! 勝ち負けの向こうにあるスリルとか、相手との読み合いの熱さとか、そういうのないのかよ!?」
「ないな。他者の思考という不確定要素を読み合う行為は、ノイズの処理に過ぎない。精神の消耗だ」
ぐうの音も出ないほどの冷淡さ。
勝負への執着ゼロ。名誉欲ゼロ。
将棋部が泣いて逃げ出すレベルの、完全なる合理主義の壁だった。
「……じゃあ、お前は何のためにその異常な頭脳を使ってんだよ」
俺は盤を抱え直し、思わず呆れ混じりに尋ねた。
「勉強して、生徒会の仕事して、他人の校則違反取り締まって……お前、息抜きとか趣味ってないのか? 休みの日、何して生きてんだよ」
どんな高尚な趣味が出てくるのかと思った。
チェスか、天体観測か、難解な哲学書の原書講読か。
律は胸ポケットのペンをカチリと鳴らし、ほんの少しだけ――本当に1ミリ程度だけ、誇らしげに顎を引いた。
「趣味ならある」
「……へえ、なんだ?」
「『あらゆる規格サイズの直方体を、引き出しの容積に対して隙間なく充填するパズル』だ」
「…………は?」
「具体的には、自宅のデスクの引き出し(幅380mm×奥行き420mm×高さ120mm)に対し、市販のクリアケース、クリップボックス、付箋のパッケージ等を組み合わせ、デッドスペースを0立方ミリメートルにする充填作業だ。メーカーごとに異なる外寸の公差をノギスで計測し、完璧なシンデレラフィットを達成した瞬間の脳内報酬系物質の分泌量は、いかなる勝利の快楽をも凌駕する」
早口でまくし立てる律の目は、今日一番の輝きを放っていた。
……引くわ。
ドン引きだわ。
「あと、休日は『牛乳パックを最も美しい平面に解体する角度の研究』と、『自宅の冷蔵庫における空間充填率の極大化および先入れ先出し法の完全同期実験』を行っている」
「……は? 冷蔵庫?」
「あらかじめ各食品の体積と賞味期限をデータベース化し、チルド室およびドアポケットに対し、冷気循環を阻害しない最小隙間でテトリスのようにピッタリ配置する作業だ。母が無計画に買ってきた不規則な形状の食材を、いかに直角とグリッドの中にねじ伏せるか……あれはチェスや将棋など足元にも及ばない、動的最適化の極致だぞ」
「……方正」
「なんだ」
「お前、将棋部に来なくて正解だわ。うちの部員がみんなノイローゼになる」
「理解してもらえて幸いだ。では、書類の整理に戻るため、速やかに退室されたし」
律は再び、カチカチと狂いのない作業に戻っていった。
背筋は180度。ネクタイは正三角形。
俺はため息をつきながら、生徒会室のドアを引いた。
天才の無駄遣い。いや、本人にとってはこれ以上なく有意義な人生の使い道なのかもしれない。
夕暮れの廊下を歩きながら、俺は苦笑いを漏らした。
あいつを動かすのは「栄光」でも「勝利」でもない。
ただ、世界のどこかにある「四角い隙間」が、綺麗に埋まる瞬間だけなのだ。
……まあ、あんな偏屈な男が味方にいてくれる高校は、ある意味でどんな強豪校よりも鉄壁なんだろうけどな。




