不毛な座標軸と固有値(2年B組・九条 尊)
他人の足を引っ張る奴は三流だ。
本物の秀才なら、正面から相手の頭を踏みつけて首位を奪い取るべきだ。
「……またかよ。クソが……!」
1学期期末考査の最終日、放課後。
俺――九条尊は、細長く三つ折りに圧着された『個別成績度数分布票』を睨みつけ、紙が破れそうな勢いで握りしめていた。
【総合得点:494点/500点】
【学年順位:2位】
2位。またしても2位。
入学以来、一度たりとも破れない「学年2位」の壁。
確認するまでもない。この学年で俺の上に立つ奴なんて、あいつしかいないのだ。
俺は紙を乱暴にポケットに突っ込み、B組の教室を飛び出した。
目指すは隣のA組。
ガラッとドアを乱暴に開けると、放課後の静まり返った教室の中央、机の上の筆記用具をミリ単位で整列させている男がいた。
ブレザーにシワひとつなく、ネクタイを直角に正した「四角四面のプリンス」、生徒会副会長・方正律。
「おい、方正!」
俺が机をバンと叩くと、律は定規を動かす手を一切乱さず、銀縁メガネの奥から冷たい目をスッと上げてきた。
「九条くん。机の加振による固有振動で、並べ終えた消しゴムの位置が3ミリずれた。再配置のコストを請求したいところだが」
「知るかそんなもん! お前、現代文の最後の記述問題、なんて書いた!?」
俺は自分の答案用紙を机の上に叩きつけた。
「問5の『筆者の意図する自由の定義』だ! 俺は本文の対比構造を拾って完璧にまとめたはずなのに、4点引かれて満点を逃した! お前はどうせ満点なんだろ!? 何を書けばあの偏屈な国語教師から満点をもぎ取れるのか教えろ!」
一気にまくし立てる俺に対し、律は眉ひとつ動かさない。
「記述の解答なら、文末の因果関係を『ゆえに』で統一し、第3段落のキーワードを過不足なく網羅しただけだ。採点基準のガイドラインに忠実に従えば、満点以外の出力はあり得ない」
「くっ……! やっぱり満点かよ! たった6点差だぞ、たった6点! 次こそは……夏の実力テストこそは、俺がお前を必ず引きずり下ろして学年トップに立ってやる!」
拳を握りしめ、剥き出しの闘争心をぶつける俺。
中学時代から神童ともてはやされ、努力とプライドでトップを走り続けてきた俺にとって、こいつは絶対に倒さなければならない「壁」だった。
だが――。
律は心底不思議そうに、首を傾げた。
「どうして僕と君を比べる必要があるんだ?」
「……あ?」
「順位など、所詮は同じ試験問題という単一の物差しで切り取った、偶発的な相対評価に過ぎない。君が二位を取り、僕が一位を取ったという別々の事実が存在するだけだ。そこに上下や勝敗を見出すことに、何の意味がある?」
「何の意味がある、だと……!? 勝負だろうが! 俺とお前、どっちが優秀かっていう――」
「僕は僕にしかなれないし、君は君にしかなれない」
律の口調は、あまりにも静かで、平坦だった。
見下すような嘲笑も、勝ち誇る傲慢さもない。
ただ、2本の平行線について語る数学者のように、揺るぎない事実だけを口にしている。
「僕というシステムは、僕の知識の欠損を埋めるために勉強している。君という個体が何点取ろうと、僕の学習の価値は1ミリも変動しない。同じように、君がどれほど努力して積み上げた知性も、僕の点数ごときで価値が損なわれる筋合いはないはずだ」
「…………っ」
「君の答案は、思考の解像度が非常に高い。僕に勝つだの負けるだのという不確定な他人の座標に囚われず、君自身の関数を極大化することにリソースを集中させればいい。……君のその無駄なエネルギーの浪費は、極めて非合理的だ」
律は机の上の消しゴムを元の位置に直角に戻すと、カバンを手にスッと立ち上がった。
「では、生徒会の定例会議があるため失礼する。机の上の答案用紙は、縁から平行に直して持ち帰ることを推奨する」
靴音ひとつ乱さず、律は教室を出ていった。
タイルの目地を絶対に踏まない、いつも通りの奇妙な直進歩行で。
夕日の差し込む教室に、俺は一人取り残された。
「……ふざけんなよ」
奥歯をギリリと噛み締める。
悔しくて、腹が立って、情けなくて仕方がなかった。
あいつは俺をライバルとして見てすらいない。勝負の土俵にすら上がってくれない。
だけど――。
『君がどれほど努力して積み上げた知性も、僕の点数ごときで価値が損なわれる筋合いはないはずだ』
その言葉が、さっきまで俺を縛り付けていた「2位という劣等感」を、呆気ないほど綺麗に粉砕していた。
「……偉そうに説教しやがって」
俺は机の上の答案用紙を乱暴に掴みカバンに突っ込んだ。
「勝手に一人で完結してろ、四角四面のバカ野郎。……お前が勝負してこないなら、俺が一方的にお前を追い抜くだけだ」
夕暮れの廊下を、俺は力強く踏みしめて歩き出した。
あいつの引いたまっすぐな線に負けないくらい、自分だけの直線を、どこまでも研ぎ澄ませていくために。




