無菌室のメトロノーム(1年C組・図書委員 淡雪 湊)
教室という場所は、僕にとって「音の多すぎる水槽」だ。
誰かの作り笑いの裏にある苛立ち、机の下で交わされる目配せ、「みんなで仲良くしようね」という言葉の裏に透ける同調圧力。そういう目に見えない感情の澱が、まるで濁った水のように肺にまとわりついて、息が苦しくなる。
「淡雪くんって、いっつもビクビクしてて空気読めないよね」
そんな小さなひそひそ声が耳に入るたび、僕の心拍数は跳ね上がり、消えてしまいたくなるのだ。
だから、放課後の図書室だけが僕の逃げ場だった。
……はずだったのに。
「淡雪くん。日本十進分類法(NDC)第3次スキームにおいて、この書架の配置には致命的な欠陥がある」
冷たい、完全にフラットなバリトンボイス。
息を呑んで振り返ると、そこには寸分の狂いもない姿勢で立つ生徒会副会長・方正律先輩の姿があった。
シャツのボタンはきっちり留められ、銀縁メガネの奥の双眸には、感情というものが1マイクログラムも宿っていない。
「ひ、ひぃっ……! す、すみません! 何か僕、間違えましたか……!?」
怒られる。責められる。僕のせいでこの人の機嫌を損ねてしまったんだ――反射的に肩をすくめ、頭を下げた僕に、先輩は淡々と言った。
「謝罪の必要性および論理的妥当性が不明だ。君に悪意や過失があったのではなく、単に700番台(芸術)と800番台(言語)の境界線において、背表紙のミリ単位のズレが放置されている事実を指摘したにすぎない」
「えっ……?」
顔を上げると、先輩は胸ポケットから金属製の30cm定規を取り出し、本棚にピタリと当てていた。
顔色をうかがうような探る目も、蔑むような冷笑もない。ただ、本棚の「凹凸」だけを見つめている。
「君は先ほどから他人の視線や声のトーンに過敏に反応し、作業効率が通常の42%まで低下している。他者の感情という非論理的なパラメータを推測することに脳のメモリを割くのは、極めて非生産的だ」
「で、でも……怒ってるのかなとか、嫌われてるのかなって思ったら、怖くて……」
消え入りそうな声で呟いた僕に、律先輩はメガネを中指でクイと押し上げた。
「無意味だ。他人が何を考えているかなど、脳波を直接スキャンしない限り確定しない不確定要素だ。確定しない数値に怯える暇があるなら、確定している『物理法則』に従いなさい」
「物理法則……?」
「この定規の目盛りに合わせ、背表紙を書棚の手前の縁からきっちり5ミリ後退させて整列させる。作業内容はそれだけだ。そこには他人の評価も、空気の読解も介在する余地はない」
先輩はもう一本の定規を、僕の掌にすっと乗せた。
金属の冷たさが、汗ばんだ手に心地よかった。
「1冊につき所要時間3秒。背表紙のタイトルが垂直であることを目視確認。……開始」
言われるがままに、僕は本を棚の手前に揃え始めた。
カチャリ、と定規が当たる。
背表紙が綺麗に揃う。
隣で、律先輩も同じ速度で本を揃えていく。
カチャリ。カチャリ。
一定のテンポで刻まれる、硬質で正確な音。
(……あ、息ができる)
不思議だった。
先輩の隣にいると、あの教室を満たしていた重苦しい「気遣い」や「悪意」のノイズが、綺麗さっぱり消えていく。
この人は、僕の顔色なんて一切見ていない。
僕がおどおどしていようが、声が小さかろうが、そんなことは「本棚を揃える作業」においてノイズでしかないから、気にも留めないのだ。
不機嫌を撒き散らして誰かを支配しようとする人もいない。
笑いながら陰口を叩く人もいない。
ただ、ルールと、数字と、まっすぐな線があるだけ。
そこはまるで、完全に消毒された無菌室のようだった。
「……あの、方正先輩」
「なんだ。作業の手が0.8秒停止したぞ」
「先輩は……誰かに嫌われるの、怖くないんですか?」
ずっと聞きたかったことを、思わず口にしていた。
先輩は全校生徒から「融通が利かない」「冷酷だ」と陰口を叩かれることも多い。僕なら、そんな目で見られたら一日で学校に来られなくなってしまう。
先輩は本を押し込む手を止めず、平然と言い放った。
「好悪の感情など、気圧の変化と同じだ。雨が降れば憂鬱になり、晴れれば機嫌が良くなる程度の、気まぐれな化学反応に過ぎない。そんなものに合わせて自分の行動規範を歪めるなど、気圧に合わせて自分の身長を縮めるくらい無意味だ」
「気圧に合わせて、身長を……」
「他人に好かれるために生きているのではない。僕は、自分が引いた正しい直線を歩くためにここにいる」
本棚の端まで到達し、先輩はパチンと指を鳴らした。
見事だった。
棚一面に並んだ本が、まるで一枚の板のように狂いなく一直線に並んでいる。
「作業完了。書架の美しさは初期状態から300%向上した。……淡雪くん」
「は、はい!」
「君の作業精度は高い。指先のブレは0.5ミリ以下に収まっていた。次回以降の図書整理も、君のこの再現性を当てにする」
「…………っ」
褒め言葉のトーンじゃなかった。ただの「観測結果の報告」だった。
でも、誰のお世辞よりも、誰の「優しい慰め」よりも、その言葉は僕の胸にまっすぐ届いた。
この人は、僕を可哀想な後輩として憐れんだんじゃない。
ただ、僕が「ちゃんとできた」という事実だけを、定規で測るように正確に認めてくれたのだ。
「……はい! 僕、もっと正確に揃えられるようにします!」
「過剰な意気込みは不要だ。心拍数が上がると指先が震えて誤差が生じる。常に平常心を保ちなさい」
そう言って、先輩は定規を白衣のポケットに収めると、踵を返した。
廊下の目地を決して踏まない、いつも通りの奇妙な直進歩行。
図書室を出ていく先輩の背中を見送りながら、僕は自分の胸に手を当てた。
さっきまで激しく乱れていた心拍が、先輩の足音と同じ、規則正しいリズムに落ち着いている。
ここは水槽じゃない。
四角い枠組みに守られた、僕の安全な居場所だ。
あの「四角四面のプリンス」が、定規一本で僕の世界を区切ってくれたから。




