降水確率と教育的指導(2年数学担当・教員2年目 間宮元)
しとしとと冷たい雨が降り続く。職員室の給湯室で、俺――間宮元(まみや・はじめ 25歳・数学担当)は、淹れたてのブラックコーヒーをあおりながら深いため息をついた。
「……くっそう、またやられた。全然かわいくねぇ……!」
「おや間宮先生、また方正くんに揚げ足を取られましたか?」
マグカップを手に隣へやってきたのは、進路指導担当のベテラン・白川先生だ。眼鏡の奥で、穏やかな目を細めている。
「揚げ足どころじゃないですよ! 今日の四限、微積の単元で黒板に書いた私の計算式に『先生、第三展開の第二項、文字の定義域における連続性の証明を一段階スキップしています。その記述では数学的厳密さに欠けます』って……! 生徒の前で公開添削ですよ、公開添削!」
「ははは、相変わらず手厳しい」
「あいつ、まだ高二ですよ!? 体育以外オール五、定期テストは常に満点、学年主席。非の打ち所がないのは認めますけど、もうちょっとこう……『先生、わかりません!』みたいな教え甲斐ってものがないんですかね!」
キーッとなりながら頭を抱える俺に、白川先生は「先が楽しみですねえ」と呑気に笑っている。楽しんでるのはアンタだけだ。
放課後。梅雨特有のじめじめした空気の中、俺は傘立ての見回りを兼ねて昇降口へと向かった。
雨の日の昇降口は、教師にとって鬼門だ。濡れた傘から水滴が垂れて床は滑りやすくなり、傘の取り違えや置きっぱなしによるトラブルが多発する。
案の定、昇降口はカオスだった。
適当に放り込まれたビニール傘が折り重なり、床には茶色い足跡と水たまり。
そして――その混沌の中心に、奴はいた。
「……なぜだ。なぜ人間という生物は、傘の留め具を留めずに突っ込むのか。これでは折り畳まれた布地が放射状に展開し、隣接する傘の骨と干渉してエントロピーが増大する一方ではないか……」
ぶつぶつと呪詛のような独り言を呟きながら、鬼の形相で他人の傘を一本一本きっちりと巻き直している男。
生徒会副会長・方正律である。
「おい、方正。何やってんだお前」
声をかけると、律は直角に首だけをこちらへ向けた。ブレザーの袖をきっちり二回折り返し、手にはビニール傘。
「間宮先生。見ての通り、空間の正規化です。現在の傘立ての充填率は140%。このままでは後から下校する生徒が自分の傘を視認できず、誤認持ち帰り事案の発生確率が前日比で62%跳ね上がります。ゆえに、僕がグリッド状に整列させています」
「いや、お前が全部やる必要ないだろ。もう下校時刻過ぎてんぞ」
「放置すれば僕の視覚的ストレスが致死量に達します。それに――」
律は傘立ての最下段、奥深くに押し込められていた『ある1本の傘』をスッと引き抜いた。
泥でひどく汚れ、骨が1本折れ曲がった黒い傘。
「……これの持ち主が、困るはずです」
「え?」
律は手帳を取り出し、付箋の貼られたページを開いた。
相変わらず、極細ペンでびっしりと几帳面な文字が並んでいる。
「1年B組の男子生徒のものです。彼は先週から足を痛めており、歩行速度が通常の70%に低下している。今朝、雨脚が強まる中で遅刻寸前で駆け込み、焦ってこの傘を無理やり押し込んだのを目撃しました」
「……ケガしてるやつなんていたか?」
「骨が折れた傘では、この雨量(現在時間雨量12ミリ)の中、濡れずにバス停まで到達することは不可能です。体温低下により免疫機能が低下すれば、来週の期末考査に影響が出る」
律は当たり前のような顔をして、ブレザーの内ポケットから小型のプライヤーと補修用テープを取り出した。
……なんで高校生のポケットから工具が出てくるんだよ。
律は傘立ての縁に腰掛け、折れた骨に添え木を当てて手際よく固定し始めた。
その指先には一切の迷いがない。
「先生。大人はよく『他人の気持ちを考えなさい』と抽象的な精神論を口にしますが、僕にはそれが理解できません」
雨音の中、律の平坦な声が響く。
「他人の感情という非線形な変数を推測することは不可能です。しかし、事実と状況を観察すれば、『何が必要か』という解はある程度定まる。ルールを守ること、環境を整えること、不具合を修復すること。それらはすべて、他人の機嫌を取るためではなく、システムを正常に稼働させるための最低限の保守作業です」
カチリ、とプライヤーの小気味いい音が鳴る。
折れていた傘の骨は、不恰好だが強固にまっすぐ繋ぎ合わされていた。
「完了しました。耐風圧強度は初期値の80%まで復元。バス停までの歩行には耐えうるはずです」
律は直した傘を、1年生の靴箱の前にそっと立てかけた。
そこに「感謝されたい」とか「いいやつだと思われたい」という我欲は、1ミリも混ざっていない。
ただ、歪んでいるものが嫌いだから。
困っているという「バグ」が生じている世界を、放っておけないから。
不器用で、頑固で、どこまでも四角四面な、この男なりの「誠実さ」。
「……方正」
「なんですか、先生。また僕の作業手順に論理的欠陥でもありましたか」
少し警戒するようにメガネを押し上げる教え子に、俺は思わず吹き出してしまった。
「いや。……お前、やっぱり全然かわいくねぇよ」
「主観的な悪口は教育的指導として不適切です」
「はいはい、すみません。ほら、もう下校しろ。職員室に予備の置き傘あるから、お前も濡れないで帰れよ」
「不要です。僕の折りたたみ傘は撥水度5級、親骨70センチの完全防備仕様です」
律は完璧な角度で一礼すると、土砂降りの雨の中へ、寸分のブレもない歩幅で歩き出していった。
広げられた黒い傘は、雨粒を弾いてピンと張っている。
職員室に戻ると、白川先生が温かいお茶をすすりながら待っていた。
「どうでした、間宮先生。『かわいくない生徒』は」
「……ええ、まったくかわいくないですね」
俺はパソコンを開き、明日の微積の授業プリントの修正に取り掛かった。
第二項の定義域の証明、ちゃんと一段階足して、あいつがぐうの音も出ないくらい完璧な論理で固めてやる。
「でもまあ……教師の威厳を保つために、こっちも死ぬ気で勉強し直さなきゃいけないって意味では……最高の生徒ですよ、ちくしょう」
外の雨音を聞きながら愚痴る俺を見て、ベテランの白川先生は「ふふっ、いい顔になりましたね」と嬉しそうに目を細めていた。




