推しの運動神経は直角(2年A組 佐倉 唯)
風薫る5月。新緑がまぶしい五月晴れの午後。
私は今、体育館のひな壇で、尊さのあまり両手で口元を覆って震えていた。
「……はぁ、今日も横顔のラインが黄金比すぎる……」
私の視線の先には、同じ2年A組のクラスメイト、方正律くん。
白の体操服に身を包んでなお漂うノーブルな気品。すっと通った鼻筋に、光を反射する銀縁メガネ。汗ひとつかいていない涼やかな美貌は、まさに校内で囁かれる「プリンス」そのものだ。
今学期、私の日課は「推し(方正くん)の観察」。
生徒会副会長としての冷徹な姿も素敵だけど、同じクラスになって初めて知った。
この人、運動になると信じられないくらいポンコツなのだ。
今日の体育の授業はバレーボール。
男子コートでは、まさに律くんのサーブの順番が回ってきたところだった。
「ふっ……推しのサーブフォーム、拝ませていただきます……!」
息を呑んで見守る私。
律くんはボールを両手で持ち、じっと見つめた。
そして、おもむろに体育教師に向かって右手をピッと挙げた。指先まで寸分の狂いもない完全な垂直。
「先生。質問があります」
「お、おう、方正。なんだ?」
「このボールの内圧は、日本バレーボール協会が定める公式規格(0.300〜0.325kgf/㎠)の下限を下回っているように見受けられます。反発係数に狂いが生じるため、正確な弾道計算が不可能です。空気入れの再適用を要求します」
「いいから早く打て!!」
先生の怒声が体育館に木霊する。
そう、これ。これが律くん。
運動を始める前に、まず「物理法則と規格」にケチをつける。この異常な理屈っぽさ、クラスの男子は「また始まったよ……」と白目を剥いているが、オタクの私からすれば「今日も今日とて面倒くさくて可愛い!!」と心の中でペンライトを激振りの案件である。
「やむを得ない。初期条件の不確定要素を考慮し、打点と角度を補正する」
律くんは真顔で呟くと、ボールをトスした。
美しい。まるで彫刻のようなフォーム。腕の振り、完璧な直線軌道――!
スカッ。
空を切る乾いた音。
ボールは律くんの手のひらを綺麗にすり抜け、彼の後頭部にぽすんと直撃して床を転がっていった。
「…………」
静まり返る体育館。
「今のは、トスの上昇気流がエアコンの送風(微風・ルーバー角度30度)によって左へ1.2センチ偏向したためだ。僕の運動機能の瑕疵ではない」
「空振りの言い訳が長ぇよ!!」
男子たちの一斉ツッコミ。
律くんはメガネをクイと押し上げ、何事もなかったかのように直角の姿勢でボールを拾いに行っている。
(可愛い……! 言い訳マシンガン可愛い……!!)
私は床を転がりそうな衝動を必死で抑えた。
頭脳明晰で完全無欠に見えるのに、身体を動かすとなると途端に「カクカクしたロボット」みたいになるギャップ。これが私の推せる最大の理由だ。
放課後。
私は日直の仕事で、理科室の備品チェックリストを生徒会室へ届けることになった。
ドアをノックして開けると、夕日が差し込む部屋で、律くんがひとり黙々と書類を整理していた。
「あ、方正くん。日直の書類持ってきたんだけど……」
「佐倉さんですね。そこへ置いてください」
カツ、カツ、と律くんが歩み寄ってくる。
制服に着替えた彼は、昼間のポンコツぶりなど嘘のように凛々しい。
机に置いた私のファイルを、律くんは指先でススッと動かした。
「机の縁から平行に3センチ。……よし」
「あはは、相変わらず几帳面だね」
苦笑いする私に、律くんは眼鏡の奥の切れ長な目を向けた。
「几帳面ではない。境界線が整っていない空間は、視覚情報を処理する脳のリソースを無駄に消費する。ところで佐倉さん」
「は、はい!?」
推しに見つめられて、心臓が跳ね上がる。
律くんは私のブレザーの胸元を、すっと指さした。
「名札の安全ピンが、水平基準から右上がりに約4度傾斜している。気になりすぎて、先ほどから僕の集中力が3.8%低下している。直ちに是正してほしい」
「えっ、あ、ごめん!」
慌てて名札を直そうとするけれど、推しの前で緊張して指が震えてうまく外れない。
もたもたしている私を見て、律くんは小さくため息をついた。
「貸しなさい。極めて非効率だ」
言うやいなや、律くんの長い指が私の胸元に伸びてきた。
ふわっと、石鹸と清潔な紙の匂いが鼻先をかすめる。
(えっ!? 近い近い近い!! 顔がいい!! 死ぬ!!)
息が止まりそうになる私をよそに、律くんは至極真剣な眼差しで、安全ピンをミリ単位で調整している。
完全に職人の目だ。色気もへったくれもない。ただ「直角にしたい」という執念だけがそこにある。
「完了した。水平器を当てても狂いはないはずだ」
満足そうに頷く律くん。
「あ……ありがとう、方正くん」
顔がカッと熱くなるのが自分でもわかる。
でも、律くんは私の赤くなった顔を見ても、なんの感情の揺らぎも見せない。
「礼には及ばない。歪んだものが視界から排除され、僕の精神衛生が保たれただけだ。……それと、佐倉さん」
「な、なに……?」
告白でもされるのかと一瞬パニックになる私に、律くんは氷のように冷静な声で言った。
「顔面が紅潮し、心拍数が上昇しているように見受けられる。5月は寒暖差による自律神経の乱れが生じやすい季節だ。帰宅後は40度のぬるま湯に15分間浸かり、交感神経を鎮静化させることを強く推奨する」
「……」
ですよねー!!
そういうとこだよ方正くん!!
人の乙女心を「自律神経の乱れ」で片付ける男、それが方正律!!
「……うん、お風呂ゆっくり入るね。じゃあ、お疲れ様でした!」
生徒会室を飛び出し、冷たい廊下の風を浴びながら、私は大きく息を吐き出した。
顔の熱は全然引かない。
めんどくさい。
本当に理屈っぽくて、融通が利かなくて、人の気も知らないでめんどくさい男だ。
だけど――。
名札を直してくれたあの指先は、決して私の服を乱暴に引っ張ったりしなかった。
不器用なくせに、壊れ物を扱うみたいに丁寧だった。
胸元の、定規を当てたようにまっすぐな名札を指先でなぞりながら、私はにんまりと口元を緩める。
「……あーあ。これだから推し変できないんだよなぁ」
夕焼けに染まる廊下で、私は明日もまた、あの四角四面なプリンスを観察することを心に誓ったのだった。




