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修学旅行編:番傘の下のレディー(2年C組 槙原 雫)

 2年C組 槙原 雫


 小さい頃から、背の順はずっと一番後ろだった。

 運動神経も無駄に良くて、声もハスキー。

 女子からは「雫ちゃんイケメン!」「彼氏になって!」と騒がれ、男子からは「お前男前だな」「力仕事任せた!」と肩をバシバシ叩かれる。


 それが私の日常であり、定位置だった。

 スカートを履いていても、中身は完全に「気のいい男友達枠」。

 自分でも「女らしさ」なんてものは前世に置いてきたつもりだったし、今さら誰かに女の子扱いされるなんて、想像したことすらなかった。


 修学旅行3日目、午後。

 奈良から京都へ戻り、嵐山の竹林の小径を抜けたあたり。

 同じ班の連中が土産物屋に気を取られている間に、空模様が一変した。

 遠くでゴロゴロと雷鳴が轟いたかと思うと、前触れもなく視界が白くなるほどの夕立が降り注いできたのだ。


「うわっ、マジかよ! ゲリラ豪雨じゃん!」


 バチバチと大粒の雨が地面の小石を叩く。

 近くの土産物屋の狭い軒先には、すでに観光客が雪崩れ込んでいて入る隙間もない。


「バス停、あっちの通りだよな! 走れば1分だ、突っ切るぞ!」


 私はカバンを頭の上にかざし、雨の中へ飛び出そうと足に力を込めた。

 濡れたって平気だ。制服なんて乾かせばいい。いつだって私は、そうやって先頭を切ってきたんだから。


 だが、地を蹴ろうとした瞬間――


 バサッ。


 頭上から、竹と油紙の擦れ合う硬質な音が響いた。

 同時に、私の頭上から冷たい雨粒の感触が完全に消え失せた。


「……え?」


 見上げると、そこにあったのは深い藍色の、大きな和傘――番傘だった。

 太い竹の骨組みが幾何学模様のように頭上に広がり、雨を弾く小気味いい重低音を響かせている。


 横を見る。

 そこに立っていたのは、生徒会副会長・方正律だった。


 シワひとつない学生服。

 左手で番傘の柄を垂直に握り、右手で銀縁メガネの位置をクイと押し上げている。

 いつもの、あの冷徹で抑揚のない顔。


「……方正?」


「槙原さん。雨宿り先が確保できない状況下において、無防備な疾走を選択するのは極めて短絡的だ。ブレザーのウール繊維に水分が過剰浸透した場合、気化熱によって体温が急激に低下し、免疫機能の低下を招く。……入りなさい」


「あ、いや、でも……私、濡れても別に平気だし! お前が濡れるだろ!」


「僕の傘の直径は110センチある。二人の肩幅の合計に対して十分なクリアランスが存在する。……それより、バス停へ向かうぞ」


 律はそう言うと、私の返事も待たずに歩き出した。

 その歩幅は、いつもよりほんの少しだけ狭い。

 私の歩調に、ぴったりと合わせられている。


(……え? ちょっと待って……)


 並んで歩き始めた瞬間、私の脳内で何かが激しく警報を鳴らした。

 近い。

 肩が触れ合いそうなほど、距離が近い。

 番傘の狭い空間に閉じ込められたせいで、雨の湿った匂いの中に、日干ししたリネンとミントのような、律の清潔な匂いがふわりと混ざり込んでくる。


 しかも――


「あ……」


 気づいてしまった。

 律は、私を完全に傘の中央に収めるため、傘の軸を自分の側へ傾けていた。

 当然、律の右肩には容赦なく雨粒が跳ね、濃紺のブレザーの色がみるみる濃くなっている。

 それだけじゃない。

 歩道のない狭い散策路で、律はごく自然に、車が通る「外側(車道側)」に立ち、私を内側の生垣側に配置していた。


「おい、方正! お前の右肩、びしょ濡れじゃん! もっと傘、自分の方に――」


「問題ない。人体における濡れ面積の非対称性は、後ほどタオルによる吸水プロトコルで均一化できる。……それより、足元に注意しなさい」


 律は前を向いたまま、平然と言った。

 行く手には、雨水に濡れて黒光りする古い石畳の段差。


「濡れた花崗岩の表面は、静止摩擦係数が乾燥時の40%以下まで低下している。君のローファーのソールパターンでは横滑り(スリップ)のリスクが高い」


 そう言って、律は傘を持っていない方の手を、スッと私の目の前に差し出してきた。


「捕まりなさい。僕の重心をアンカーとして利用すれば、転倒モーメントを相殺できる」


「っっっっ!?」


 ドクン、と心臓が跳ね上がった。

 アンカー? 転倒モーメント?

 頭では難しい理屈を並べているけれど、これって――


(エスコート……されてる……!?)


 差し出された手。

 男子にしては細くて、指先がまっすぐで、ペンダコが少しだけある綺麗な手。

 いつもなら「平気平気!」「自分で跳べるわ!」と豪快に飛び越えていたはずの段差が、急に断崖絶壁のように見えてくる。


 顔が、信じられないくらい熱い。

 夕立の冷たい空気の中にいるはずなのに、耳の先までカッカと燃え上がっているのが自分でもわかった。


「な、何言ってんだよ……! 私だぞ!? 体育祭のリレーでアンカー走るような奴だぞ! こんな段差くらい、ひとっ飛びで――」


 動揺を隠すために、わざと男っぽく強がって声を張り上げる。

 どうせ「ああ、そうだったな」と笑って手を引っ込めるだろう。いつもの男子たちみたいに、「お前は逞しいから心配いらねえな」って言ってくれるはずだ。


 だけど。

 律は手を引っ込めなかった。

 銀縁メガネの奥の切れ長な瞳をスッと向けて、心底不思議そうに首を傾げたのだ。


「君が誰であろうと、僕の視界内にいる女子生徒(レディー)だ」


「…………っ」


「筋力や走力の高低は、生物学的な性別や、僕が取るべき紳士協定(エチケット)の基準を無効化する理由にはならない。目の前で濡れ鼠になり、足を滑らせて負傷するリスクを放置することは、僕の美意識が断じて許可しない。……早く手を置きなさい。筋肉が強張っているぞ」


 嘘偽りのない、まっすぐな声。

 お世辞でも、下心でも、からかいでもない。

 ただ、物理法則と同じくらいの絶対的な確信を持って、こいつは私を「一人の女の子」として扱っている。


 ――今まで、誰も見てくれなかった私を。


「……ばか」


 掠れた声がこぼれた。

 私はこれ以上顔を見られないように、俯いて前髪で表情を隠した。

 そして、恐る恐る、自分の右手を律の左腕の袖へと伸ばした。

 直接手を握る勇気なんてなくて、ブレザーの生地を、きゅっと指先で摘むようにして掴む。


「……これでいいだろ」


「ああ。摩擦力の伝達を確認した。進むぞ」


 律は何事もなかったかのように、ゆっくりと段差を降りていく。

 番傘を打つ雨の音が、まるで私の早鐘のような心臓の鼓動を隠してくれているみたいだった。


 バス停に着くまでの、たった数十メートル。

 いつもなら30秒で走り抜けるその距離が、永遠のように長く、そして信じられないくらい愛おしく感じられた。


 バス停の屋根の下に入ると、律は慣れた手つきで番傘をシュッと閉じ、雨水を綺麗に払ってクルクルと巻き留めた。

 その動作の美しさすら、今は直視できない。


「槙原さん。額が赤いぞ。やはり初期の寒冷刺激による血管拡張が――」


「ちがう!! 大丈夫! 大丈夫だから!!」


 私は両手で真っ赤になった顔を覆い、逃げるようにバス停のベンチの端っこへドサリと座り込んだ。

 心臓がうるさい。息がうまく吸えない。


(……なんなんだよ、こいつ)


 視線の先では、右肩をびしょ濡れにした律が、何食わぬ顔でハンカチを取り出し、メガネのレンズを几帳面に拭いていた。


 こんなの、反則だ。

 四角四面で、堅物で、理屈っぽくて、みんなから「変人」扱いされているくせに。

 あんな風に、当たり前みたいに女の子扱いされたら――勘違いしちゃうじゃないか。


 止み始めた秋の雨の向こう、雲の切れ間から西日が差し込んでいた。

 濡れたアスファルトがキラキラと光る中、私はまだ熱の引かない頬を押さえながら、これからの高校生活、こいつの顔をどんな顔で見ればいいのかと、途方に暮れていた。

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