修学旅行編:九条尊の矜持と、門前の特盛勝負(2年B組・九条 尊)
2年B組・九条 尊
修学旅行3日目、午後。
奈良公園の春日野を抜け、東大寺へと続く門前の参道。
周囲の観光客が鹿と戯れ、浮かれた気分の高校生たちがせんべいを放り投げている中、俺――九条尊は、隣を歩く男の横顔を鋭く睨みつけていた。
方正律。
この男、旅先だというのに一切の乱れがない。
学生服のボタンは一番上まで留められ、ネクタイは直角。カバンを地面と完全な平行に保持し、玉砂利の敷かれた参道すら定規で引いたような一直線で歩破している。
「……おい、方正」
「なんだい、九条くん。君の歩調はさっきから早鐘のように乱れているぞ。心拍数の急激な上昇は有酸素運動としての効率を著しく損なう」
「知るか! 先刻の東大寺南大門、金剛力士像の解説だが……阿形像の造立期間について、お前は『建仁3年のわずか69日間』と答えたな」
「事実だ。運慶・快慶ら慶派仏師による分業制の極致だな」
「甘い! 俺はあの仏師集団における大工や小工の動員数、およそ20名強の工数配分データまで頭に入っていた! 総合的な情報解像度においては、俺の暗記プロトコルのほうが上回っていたはずだ!」
まくし立てる俺に対し、律は歩みをミリも乱さず、銀縁メガネを中指でクイと押し上げた。
「歴史的事実に対する単なる付属データの多寡は、本質的な理解度の差異を証明しない。君のその無意味なマウント行為は、CPUのリソースを余計なタスクに浪費しているだけだ」
「ぐっ……! 貴様、どこまでも人を食った態度を……!」
試験の点数でも、文化祭の動線計画でも、こいつはいつも俺の勝負を正面から受けてくれない。
「僕は僕、君は君」とばかりに平然と平行線を引かれ、俺だけが勝手に摩擦熱で空回りさせられる。
許せない。この修学旅行という非日常の場において、一度たりともこの涼しい鉄仮面を崩せないなど、男のプライドが承知しなかった。
そんな時、門前の老舗甘味処の軒先から、威勢のいい声が響いた。
『はい名物! 秋のチャレンジメニュー、洗面器盛り“大仏宇治金時”入りましたー!』
見れば、店の外の縁台で、観光客が巨大なすり鉢のような器に盛られた緑色の山を囲んでどよめいている。
直径およそ25センチ。氷の山の上に濃厚な宇治抹茶蜜がドロリと注がれ、大量の粒あんと白玉が小山のように鎮座していた。
(……これだ)
俺の脳内で、勝利への回路がパチンと音を立てて繋がった。
知識勝負がダメなら、生物としての絶対的な処理能力でねじ伏せるまで。
「おい、方正。足を止めろ」
「茶屋か。僕たちのタイムテーブルでは、次の興福寺への移動までに18分の余剰マージンがあるが、無計画な間食は血糖値スパイクを――」
「びびったのか?」
俺はニヤリと挑発的な笑みを浮かべ、看板の『大仏宇治金時・完食者には記念絵馬進呈』の文字を指差した。
「貴様ほどの超然とした合理主義者なら、あの巨大な氷塊による熱力学的冷却負荷など造作もなく処理できるはずだ。……それとも、頭でっかちのプリンスは、冷たいものを一気に胃袋へ流し込む度胸すらないのか?」
律の眉が、わずかにピクリと動いた。
「……挑発に乗る論理的妥当性は皆無だ。そもそも氷塊の融解熱による体温低下、ならびに胃壁への局所的寒冷刺激は自律神経の失調を招く。残せば重大な食品ロスだ」
「残す気など毛頭ない! 先にあの山を削りきった方が勝ちだ。……受けて立つか、それともここで俺に背中を見せて逃げ出すか、二つに一つだぞ!」
律は懐から懐中時計を取り出し、文字盤を直角に見つめた。
そして、冷ややかにため息を落とす。
「君の幼稚な勝負欲に付き合う義務はないが……君が一人で注文し、急性胃痙攣を起こして救急搬送されれば、学年全体の行動計画に重大な遅延損害が発生する。不測の事態を防ぐためのリスクヘッジとして、僕も同一の物体を消費・処理するプロセスに介入しよう」
「フッ……能書きはいい! 店員、大仏宇治金時を二つだ!」
――5分後。
縁台の緋毛氈の上に、巨大な緑の氷山が二つ、ドスンと鎮座した。
凄まじい冷気が立ち上る。氷の総重量、推定1.2キロ。
「勝負開始だ!」
俺はスプーンを握りしめ、初手から猛然と氷の山へ突撃した。
ガツガツと口へ放り込む。冷たい、甘い、美味い! このままスピードで押し切れば、あいつがチマチマ理屈をこねている間に完食できる!
一方、律は手首の角度を一定に保ち、スプーンを氷の山に対して正確に45度の角度で差し入れていた。
サク、サク、サク。
まるで精密な切削機械のように、等間隔で氷を削り、一定のリズムで口へ運んでいく。
「九条くん。君の咀嚼ペースは初期加速が過剰だ。口腔内粘膜の急激な冷却は三叉神経を過剰興奮させ――」
「うる……さい! 口を動かせ、口を……ぐっ!?」
3分が経過した頃、異変は前触れもなく訪れた。
後頭部から側頭部にかけて、キリで突き刺されたような激烈な痛みが走る。
いわゆる『アイスクリーム頭痛』だ。
「つ……っ!? あ、頭が……割れる……ッ!」
俺はスプーンを取り落としそうになりながら、こめかみを両手で強く押さえた。痛い。視界がチカチカする。
「言わんこっちゃない。急速な血管拡張による牽引性頭痛だ。氷を舌の奥で一度加温してから嚥下する熱交換プロセスを怠るからそうなる」
律は淡々と言い放ち、依然として等間隔でスプーンを動かしていた。
残量は俺が6割、律が7割。
(くそ……こいつ、平然としてやがる……! 機械か、こいつは……!)
俺は奥歯をガチガチと鳴らしながら、気合いでスプーンを再び握り直した。負けられない。こんなところで、あいつの背中を見送るわけにはいかないのだ。
「うおおおおおおっ!」
気迫で再び氷をかきこむ俺。
それを見た律の目が、わずかに見開かれた。
「馬鹿な……痛覚シグナルをアドレナリンで無視しているのか!? 非合理的な生体運用だ……! だが、このペースで推移すれば僕の処理速度が物理的に下回る……!」
律のペーシングが、初めて狂った。
シャカシャカシャカ!と、いつもならあり得ない雑な軌道でスプーンが氷を削り、律の口へと流し込まれていく。
「むぐっ……!?」
律の手がピタリと止まった。
銀縁メガネがずり落ちかける。
律はスプーンを握ったまま、左手でギリリと前頭部を押さえ、珍しく顔を青ざめさせていた。
「方正……? お前……」
「……前頭葉……眼窩後方における……激しい血管収縮を感知……ッ! 三叉神経痛の……閾値を……超過……ッ!」
「お前も食らってんじゃねえか!!」
二人して縁台の上で頭を抱え、脂汗を流しながら悶絶する。
もはや勝負どころではない。口の中は極寒のシベリア、胃袋は氷点下、頭蓋骨の内側はハンマーで乱打されている状態だ。
それでも、俺たちはスプーンを置かなかった。
一口、また一口。
痛みに呻き、涙目になりながら、最後の一粒のあずきまで意地だけで胃袋に押し込み――
コトン。
ほぼ同時に、二つのスプーンが空になったすり鉢の底を叩いた。
「………………」
「………………」
沈黙。
縁台の柱に背中を預け、二人並んで虚空を見上げる。
秋風が、汗ばんだ額を容赦なく冷やしていく。腹の底が信じられないくらい冷たい。
「……バカなことをした」
律が、掠れた声でポツリと呟いた。
メガネはわずかに歪み、いつもの完璧な直角はどこにもない。胃を押さえながら、力なく項垂れている。
「……全くだ。何が『熱力学的負荷の処理』だ……胃が凍りついて動かん……」
俺も腹を抱え、情けなく息を吐き出した。
勝敗は、つかなかった。
同時完食。あるいは、共倒れ。
こんな下らない意地を張って、冷たい氷を胃に詰め込んで、頭を痛めて動けなくなるなんて、優等生として完全に落第点だ。
だが――。
横を見ると、あの絶対に隙を見せなかった方正律が、情けなく額を押さえながら「……緑茶の熱伝導率による胃壁の蘇生を要求する……」と小さく呻いていた。
「……ふっ」
思わず、吹き出してしまった。
「なにがおかしい、九条くん」
「いや……お前も、ちゃんと人間なんだなと思ってな」
「心外だ。僕は最初からホモ・サピエンスの生体構造に従って活動している」
「減らず口叩いてる暇があったら、茶を飲め。ほら」
俺が湯呑みを差し出すと、律は震える手でそれを受け取り、両手で包み込むようにしてすすった。
「……ぬるい。だが、生命維持には寄与する」
「あっははは! だろ?」
秋の奈良の陽光が、縁側の二人の影を長く伸ばしていた。
勝てなかった。今日もあいつを打ち負かすことはできなかった。
けれど、同じ痛みを分け合って、同じ緑茶をすすりながら並んで座るこの時間は、悪くない。
「おい、方正。興福寺への移動マージン、あと何分残ってる?」
「……マイナス4分だ。僕の人生設計において、初めてのスケジュール破綻だぞ」
「責任取って、次のバス停までは俺が引っぱってってやるよ。立てるか、プリンス」
「……他人の補助は不要だ。自立歩行可能だ」
ブツブツと文句を言いながら、それでもどこか足取りを揃えて歩き出す。
背中に冷たい風を感じながら、俺は次の定期考査こそは絶対にこいつの度肝を抜いてやると、静かに闘志を燃やし直していた。




