修学旅行編:八ツ橋の夜と、気まぐれな猫(生徒会書記・如月 涼音)
生徒会書記・2年B組 如月 涼音
畳のい草と、湿った夜風が入り混じる旅館の大部屋。
お風呂上がりの女子部屋は、ドライヤーの熱気とシャンプーの甘い香りで完全に飽和状態だった。
「ねえねえ! 今日の清水寺の階段での方正くん、見た!?」
敷き詰められた布団の真ん中で、浴衣の袖をパタパタさせながら佐倉唯が身を乗り出した。
手には抹茶味の生八ツ橋。おとなしいはずの彼女が、推しについて語る時の熱量はいつだって熱中症アラート級だ。
「見た見た! 階段で観光客のちびっ子が転びそうになった時でしょ!」
隣でポテトチップスをつまんでいたギャルの蘭が、笑いながら応戦する。
「あいつ、声も上げずに腕だけスッて伸ばして、ちびっ子の襟首を猫みたいにヒョイって持ち上げてさ! 助けた後、一切ドヤ顔もせずに『重心の動揺を感知した。傾斜角30度の石段における滑落は重大事故に直結する』って淡々と説教してんの! マジでサイボーグすぎて爆笑したわ!」
「そこがいいんじゃない!!」
佐倉が布団をバンと叩いて悶絶する。
「あの感情の起伏のなさが最高に尊いの! そのあと自分のネクタイが1ミリ曲がったのを気にしながら歩き出した横顔、完全に世界遺産だったからね!?」
「はいはい、佐倉のメガネ信仰は今日も絶好調ね」
部屋の女子たちがドッと笑う。
私は部屋の隅の座卓で、ぬるくなった緑茶をすすりながら、その光景をのんびり眺めていた。
手元の小皿には、二つ折りされた生八ツ橋。
生徒会室で毎日あの男の小言を浴びている身からすると、旅先でも相変わらず全方位へ「直角」を撒き散らしている様子が目に浮かぶ。
「――ねえねえ、如月さんはどう思うの?」
ふいに、佐倉がキラキラした目をこちらに向けてきた。
女子たちの視線が一斉に私へ集まる。
「いっつも生徒会室で一緒にいるじゃん! 如月さんから見て、方正くんってどんな感じなの? やっぱり生徒会でもあんな風に定規持って生活してるの!?」
「私?」
湯呑みをコト、と卓上に置き、少しだけ首を傾げて考える。
冷酷な秀才、四角四面のプリンス、歩く校則。
世間の評価は色々あるけれど、毎日あの隣で作業している私の答えは、最初からひとつに決まっていた。
「うーん……方正くんって、猫みたいだよね」
「……は? 猫?」
蘭がぽかんと口を開けた。
佐倉も目を丸くしている。あの氷の生徒会副会長と「猫」という単語が、どうしても結びつかないらしい。
「だって、そうでしょ」
私は八ツ橋を一口かじり、ふふっと笑った。
「自分のテリトリーに無遠慮に入ってこられると、耳を伏せてシャーッて威嚇するし。触ろうとするとスルリと身をかわして逃げるし。他人の都合には一切合わせないで、自分の決めたキャットタワーのてっぺんから動かない」
「あ、あー……! 言われてみれば、あの『半径70センチ以内に近づくな』オーラ、完全に威嚇中の野良猫だわ……!」
蘭が手をポンと打つ。
「でしょ?」
私は湯呑みのフチを指先でなぞりながら、言葉を続けた。
「でもね、本当に困って泣きそうになってる人が視界に入ると、放っておけないの。ツンとした顔のまま近づいてきて、足元にスリスリする代わりに、きっちり整理された解決策をポンと置いていく。お礼を言おうとした時にはもうプイッと横を向いて、自分の毛づくろい――あ、違った、ネクタイの位置を直してる」
あの、素直じゃない優しさ。
他人の感情に深入りする気はないくせに、世界の歪みや理不尽を放置できなくて、勝手に一人で背負い込んでカリカリしている姿。
「だからね、あれはただの、プライドが高くて、警戒心が強くて、とびきり手のかかる猫ちゃん」
私がそう締めくくると、一瞬の静寂のあと――
大部屋が割れんばかりの爆笑と歓声に包まれた。
「ぎゃはははは! わかるーーーっ!!」
蘭がお腹を抱えて畳の上を転がる。
「猫ちゃん! 超ウケる! あいつ明日から見たら絶対ネコにしか見えなくなるじゃん!」
「尊い……っ!」
佐倉は両手で顔を覆い、真っ赤になって震えていた。
「如月さんの解像度、神すぎる……! 威嚇する猫……! 怒られながらちゅ〜るあげたい……!!」
「あはは、絶対引っ掻かれるよ」
女子たちの笑い声が、夜の旅館の天井へ抜けていく。
ふすまの向こう、廊下からは消灯時間の見回りをしている先生たちの足音が遠くに聞こえていた。
(……あの方正くんのことだから、今頃男子部屋でも『布団の敷設角度が畳の縁に対して平行でない』とか言って、他の男子たちを困らせてるんだろうな)
想像するだけで、おかしくてたまらない。
私は冷めたお茶をもう一口飲み干すと、明日の自由行動のしおりをめくった。
明日もきっと、あの気難しくて愛おしい猫は、京都の街並みを直角に歩き回りながら、誰にも気づかれないように誰かを助けているのだろう。
夜はまだ更けたばかり。
八ツ橋のシナモンの香りに包まれながら、修学旅行の2日目の夜は、あたたかい笑い声とともに静かに過ぎていった。




