修学旅行編:瓦の反りと青葉のスケッチブック(2年A組 青葉 悠)
世界は、見つめ直すだけでいくらでも面白くなる。
古い木造寺院の軒先を流れる影の濃淡、石段の苔に落ちる秋の木漏れ日、それから――屋根瓦が幾重にも重なって描く、ピンと張った弧の美しさ。
京都、大徳寺の塔頭の境内。
修学旅行1日目の班別行動。俺――青葉悠は、歩行速度を落とし、小さなクロッキー帳と鉛筆を無意識に取り出していた。
「おい青葉! また止まってんのかよ!」
前を歩いていた同じ班の男子が、呆れたように振り返る。
「お前、さっきの仁王門でも柱の木目見て固まってただろ! 次の方広寺行きの市バス、あと12分で出ちゃうぞ。置いてくからなー!」
「あ……ごめん、すぐ行く。ちょっとだけ……」
慌てて鉛筆を走らせようとするが、せっかく見つけた光のグラデーションを前にすると、どうしても手元が止まってしまう。
のんびり屋、マイペース、空気が読めない。
小さい頃からずっとそう言われてきた。美術部でもないのにノートの端に風景の落書きばかりして、集団行動の輪からいつも遅れてしまう。
「悪い、すぐ追いつくから先に行ってて――」
そう言いかけた時、ザッ、と等間隔の乾いた足音が俺の真横でピタリと止まった。
銀縁メガネに、シワひとつない学生服。
カバンを肩にかけ、胸ポケットから取り出した「修学旅行行動計画表(分刻み・印刷済み)」に目を落とす男。
うちの班の班長にして、生徒会副会長・方正律。
あ、終わった。
全校生徒から「歩く校則」「四角四面のプリンス」と恐れられているあの男だ。
予定調和と時間厳守の権化みたいなやつに、こんな理由で足を止めさせた。絶対に氷のような小言を浴びせられる。
「方正、ごめん……! すぐ片付けるから――」
身構える俺の横で、律は計画表をスッと下げた。
そして、中指でメガネのブリッジをクイと押し上げ、俺が見上げていた本堂の屋根をじっと凝視した。
「……本堂の屋根葺き材は、伝統的な本瓦葺だな」
「え?」
「平瓦の接合部に丸瓦を規則正しく噛み合わせ、雨水の浸入を防ぎながら、完全な線対称のグリッドを構築している。さらに、軒先に向かって描かれるあの反り角――およそ32度。垂木の配列間隔に0.1ミリの狂いもなく、構造力学的にも視覚的にも、極めて高い幾何学的調和を達成している」
淡々とした、抑揚のない声。
でも、怒っているトーンでは一切なかった。
律は首を少し傾げ、俺の手元にあるスケッチブックへと視線を落とした。
「……君の作図だが」
心臓が跳ねる。
下手だと笑われるか、「紙と時間の浪費だ」と切り捨てられるか。
「二点透視図法における消失点の配置が極めて精緻だ。軒下の陰影に対しても、ハッチング(平行線)の密度変化を用いて光量の減衰を忠実に再現している。ただ漫然と風景を眺めているのではなく、建築物の構造的合理性を正しく認識した上で二次元平面へ射影しているな」
「……え、あ……うん。瓦の重なりが、すごく綺麗だなと思って……」
「美しいのは当然だ。宮大工の計算された職人技と物理法則の結晶だからね」
律はあっさりとそう言うと、手首の腕時計(電波ソーラー・デジタル表示)をチラリと確認した。
「市バスの定時運行表によると、次のバスを逃した場合の代替案として、200メートル先の停留所から出る地下鉄烏丸線への乗り換えルートが存在する。移動距離は380メートル増加するが、地下鉄の定時運行率は市バスの道路混雑率を考慮した実効速度を12%上回る」
「……え?」
「つまり、ここで君がスケッチを完了させるための猶予時間が、およそ4分15秒発生するということだ」
律は胸ポケットから金属製の定規を取り出すと、カバンを両足の間に垂直に置き、腕を組んで前を見据えた。
「青葉くん。他人の歩調に迎合して、君の優れた空間認識能力を途中で破棄するのは、観察記録の観点からも極めて非合理的だ。……あと3分でその軒先の陰影を描ききりなさい。僕がここで時間を管理する」
前を歩いていた他の男子たちが「ええっ!? 方正が時間遅らせていいって言った!?」と目を丸くして立ち止まっている。
俺は呆気に取られ、それから――胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
「……うん。すぐ描く!」
鉛筆の先が、迷いなく紙の上を滑る。
屋根の反り、規則正しい瓦の列、秋の乾いた光。
いつもなら「早くしなきゃ」と焦って線がブレてしまうのに、今は驚くほど手が動いた。
横に立つ律が、ストップウォッチのように正確で、揺るぎない「座標」になってくれているからだ。
「……残り30秒」
「できた!」
サッと最後の影を落とし、スケッチブックを閉じる。
律は腕時計をチラリと見て、満足そうに頷いた。
「所要時間3分48秒。許容誤差内だ。……地下鉄の駅まで時速4.5キロで移動する。遅れるなよ」
「うん!」
タイルの目地を踏まない、いつもの奇妙な直進歩行で歩き出す律の背中を追いかけながら、俺は鞄の中のスケッチブックをぎゅっと抱きしめた。
堅苦しくて、近寄りがたい秀才。
みんなそう言うけれど、本当は全然違う。
この人はただ、自分だけのまっすぐな物差しで、世界と、そこにいる人間を誰よりもちゃんと見つめているだけなんだ。
「ねえ方正、さっき言ってた屋根の角度って、奈良の寺でも同じなのかな?」
「愚問だな。寺院の建立年代や宗派によって構造様式は異なる。飛鳥時代の組物と鎌倉時代の禅宗様では力学的アプローチが全く別物だ。明日はその差異について君のスケッチで実証してもらう」
「あはは、楽しみだな」
秋の京都の空はどこまでも高くて、律の引くまっすぐな影の向こうに、鮮やかな紅葉が揺れていた。




