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顔面筋の可動域と静止摩擦係数(2年D組・柔道部 熊谷 鉄平)

 顔面筋の可動域と静止摩擦係数(視点:2年D組・柔道部 熊谷 鉄平)


「おい熊谷、お前……なんか怒ってんのか?」


 昼休みの教室で、弁当の唐揚げを口に運ぼうとした瞬間、前の席のやつにビクビクした声で聞かれた。

 まただ。


「……怒ってねえよ。ただ飯食ってるだけだ」

「あ、そう……? なんか眉間にシワ寄ってて、人を殴り殺しそうな目をしてたからさ……」


 前の席のやつは苦笑いしながら視線を逸らし、そそくさと別のグループへ行ってしまった。

 俺――熊谷鉄平(くまがや・てっぺい)は、小さくため息をついて箸を止めた。


 身長185センチ、体重88キロ。柔道部所属でインターハイを目指している。

 昔からガタイが良すぎる上に、生まれつき目つきが鋭く、おまけに人前だと緊張して表情筋がうまく動かない。

 自分では普通にしているつもりなのに、幼少期から「睨まれた」「怒っている」「カツアゲかと思った」と誤解され続けてきた。


 だから、そいつの存在がずっと謎だったのだ。


「方正律。2年A組、生徒会副会長」


 廊下を歩けば、女子生徒たちが「キャー、方正くんよ」「今日も氷のような横顔が麗しいわ……!」と黄色い声を上げている。

 あいつも、俺と同じだ。

 一切笑わない。眉ひとつ動かさない。常に無表情の鉄仮面。

 なのに、あいつは「冷徹なプリンス」と崇められ、俺は「校舎裏で人を埋めてそうな奴」と怯えられる。

 不条理すぎる。天と地の差だ。一体何が違うっていうんだ。


 その日の放課後、柔道場の畳替えの申請書を提出するため、俺は生徒会室へ向かった。

 ドアを開ける前に、スマホのカメラで自分の顔を確認する。

(少し口角を上げて……笑顔を……)

 頬の筋肉を無理やり引きつらせてみるが、鏡の中には「悪徳ヤクザが獲物をいたぶる前の笑み」が浮かんでいるだけだった。ダメだ、筋肉が言うことを聞かない。


 諦めて、そのまま生徒会室のドアを開けた。


「失礼します。柔道部の畳の申請で――」


 机の向こうに座っていた方正律が、銀縁メガネの奥からスッと視線を上げてきた。

 シワひとつない制服、机の縁と完全に平行に並んだ書類。

 相変わらず、喜怒哀楽のパラメータが完全にゼロの顔だ。


「柔道部・熊谷くん。入室時の姿勢、大腿四頭筋および広背筋の張力から見て、体幹の安定性は極めて良好だ。書類を出してください」

「あ、ああ……」


 俺が書類を差し出すと、律は手際よく目を通し、赤いペンでチェック欄を埋めていく。

 沈黙が気まずい。

 俺の顔を見て、こいつは何も言わないのだろうか。いつもなら「お前怒ってんの?」と聞かれる頃合いだ。


 耐えきれなくなって、俺は思わず口を開いていた。


「……あのさ、方正」

「なんだい。記載漏れはないが」

「お前……俺の顔見て、怒ってるように見えないか?」


 律はペンの動きを止め、銀縁メガネを中指でクイと押し上げた。

 そして、至近距離から俺の顔面をまじまじと検分し始めた。

 定規を当てられるんじゃないかと思うほどの真剣な眼差しに、俺の背中に冷や汗が流れる。


「……怒っているか、だと? 脈絡のない主観的質問だな。結論から言えば、君の顔面から『怒り』の感情パラメータは1ミリも検出されない」

「え……? でも、みんな俺に『怒ってる?』って聞いてくるんだ。目つきが悪いし、笑えないし……」

「非論理的だな。周囲の認知機能が著しく低下しているだけだ」


 律は平然と言い放った。


「人間の『怒り』の情動反応とは、交感神経の興奮に伴う心拍数の上昇、呼吸の促迫、瞳孔散大、ならびに口唇の緊張を伴う。しかし現在の君の顔面は、咬筋(こうきん)および頬骨筋が完全に脱力した『ニュートラル状態』にある。ただ骨格の傾斜角度によって眉間が寄って見えているだけであり、生体反応としては『平穏』そのものだ」


「ニュートラル……骨格……?」


「そうだ。君は単に、顔面筋の可動域に対して骨格の重厚さが勝っているため、表情の変化という出力(アウトプット)の振れ幅が狭いだけに過ぎない。それを『怒っている』と誤読するのは、相手側の観察力不足、サンプリング精度の低さに起因するバグだ」


 理屈の奔流に、頭がクラクラした。

 でも、律の言葉には一切の嘘も、お世辞も、憐れみもなかった。

 ただ、物理法則を説明するように、俺の顔面を肯定してくれている。


「だけど……お前だって無表情なのに、なんで『プリンス』とか言われて人気があるんだよ。俺と何が違うんだ」


 俺がぼやくと、律は心底心外そうに眉をひそめた(本当に1ミリだけ)。


「僕がプリンスなどと呼ばれているのは、全校生徒の集団的認知の歪みによる怪現象だ。非常に迷惑している。表情を作らないことにおいて、僕と君の仕様に本質的な差異はない」

「仕様って……」


 律は立ち上がり、書類の受領印をカシャンと正確な直角で押した。


「熊谷くん。他人に迎合するために、無理に口角を歪めるような非合理的な筋運動はやめなさい。君のその顔面は、相手の攻撃や心理的揺さぶりに対して動揺を一切悟らせない、極めて優れた『静止摩擦係数の高い防御壁』だ。柔道において、これほど合理的で美しい初期値はない」


「……防御壁」


「笑顔というノイズで自分を安売りする必要はない。君が畳の上で誰よりも礼を尽くしているなら、その無表情こそが君の誠実さの証明だ。……畳の納品は来週。以上だ」


 律は書類の控えをまっすぐに俺に手渡すと、再びパソコンの画面へと視線を戻した。

 会話終了。相変わらずの塩対応だ。


 生徒会室を出て、廊下の窓ガラスに自分の顔を映してみる。

 相変わらず、目つきは鋭いし、笑えてもいない。

 だけど――


「……静止摩擦係数の高い防御壁、か」


 思わず口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 無理して笑わなくていい。

 この強面のままで、まっすぐに立っていればいい。

 あの「四角四面のプリンス」が、定規で測るみたいに正確に、俺の顔を「誠実の形」だと証明してくれたのだから。


「よし……今日の練習、気合入れていくか」


 俺は背筋をグッと伸ばし、大股で道場へと向かって歩き出した。

 すれ違った後輩が「ひっ、熊谷先輩、目が据わってる……!」と怯えていたが、今の俺には、もうどうでもいいことだった。

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