漆黒の契約と滅菌ガーゼ(1年A組 神無月 刹那 / 本名:田中 徹)
我が名はクロム・ヴェルゼビュート。
現世の仮初の戸籍には「田中徹」と記されているが、真の姿はこの右腕に宿る暴虐の黒炎を抑え込みし深淵の守護者である。
「くっ……鎮まれ、我が右腕よ……! これ以上の共鳴は、この学園を灰燼に帰すことになるぞ……!」
放課後の第2理科室前の廊下。
俺は右腕に何重にも巻かれた包帯を左手で強く押さえ、壁に背を預けて苦悶の表情を浮かべていた。
左目には漆黒の眼帯。制服のボタンは半分外し、風もないのにマントのように羽織ったカーディガンを翻す。
完璧だ。今日の俺の闇の波動は極限まで研ぎ澄まされている。
そこへ、廊下の向こうから規則正しい足音が近づいてきた。
カツ、カツ、カツ。
メトロノームのように等間隔。タイルの境界線を踏むことなく、完全な直線を描いて進んでくる人影。
(来たな……! この学園の秩序を統べる冷酷なる執行者、方正律……!)
生徒会副会長・方正律。
奴の纏う「白銀の絶対秩序」と、我が「原初の混沌」――交われば激しい霊力衝突が起きることは必定。
俺は眼帯の下の瞳をスッと細め、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……フッ、嗅ぎつけてきたか、白銀の執行者よ。だが今は立ち去れ。我が封印が解かれし時、貴様のような常人にその余波は耐えられ――」
「1年A組・田中徹くん」
律の氷のような声が、俺の口上を容赦なくへし折った。
銀縁メガネの奥の切れ長な瞳が、俺の右腕と顔面をスッと検分するように舐める。
「君の身だしなみは校則第4条『清潔かつ健全な服装』に著しく違反している。しかしそれ以上に、その包帯の巻き方に重大な臨床的過失がある」
「……は? り、臨床……?」
思わず素の声が出そうになるのを堪え、俺は喉の奥を低く鳴らした。
「戯言を! これは太古の盟約により、我が血肉を侵食する呪詛を――」
「包帯の末端処理において、巻き始めと巻き終わりのテンション(張力)が不均一だ。特に手首付近において静脈を過剰に圧迫しており、末梢血流障害およびうっ血のリスクを誘発している。現に君の右手の指先はチアノーゼ反応手前の赤紫色に変色している」
「えっ? あ、マジで? なんかさっきからピリピリ痺れてるなと思って……って、違う! これは冥府の瘴気がだな……!」
「黙って患部を見せてください」
律はため息すらつかず、胸ポケットから医療用のハサミ(先端が丸くなっている安全仕様)を取り出した。
シャキシャキと小気味いい音を立て、俺が苦労して巻いたドラッグストアの安物包帯が、一瞬で真っ直ぐに切り開かれていく。
「ああっ! 我が封印が……ッ!?」
「ただの市販伸縮包帯50mm幅だ。……む、創傷部が露出したな」
包帯の下から現れたのは、昨日チャリで派手にずっこけた時にできた、肘から手首にかけての擦り傷だった。
赤くジュクジュクして、砂利が少し入っている。
「……傷口の洗浄が極めて不十分だ。砂粒が表皮に残存している。このまま通気性の悪い状態で放置すれば、黄色ブドウ球菌による化膿性皮膚疾患へ移行する確率が87%を超える」
「だ、だが、古の傷痕は戦士の宿命……」
「破傷風菌の潜伏期間は3日から3週間だ。感染した場合の致死率は最大50%。君のその死生観で片付けていい数値ではない」
律は自分のカバンから、ジップロックで密閉された「生徒会救急キット・完全消毒バージョン」を取り出した。
中には滅菌ガーゼ、生理食塩水、ハイドロコロイド絆創膏が、使用頻度順に直角に整列している。
「水道へ行け。流水で砂を洗い流す」
「えっ、でも水で洗うと痛いじゃん……」
「痛覚は神経が正常に機能している証拠だ。行くぞ」
有無を言わさぬ腕力(握力は普通だが、重心を完璧に崩す合理的な引き倒し)で手首を掴まれ、俺は理科室の手洗い場へ連行された。
ジャーーーッ!
「ぎゃああああ痛い痛い痛い! 闇の炎が……いや水がしみるーーーッ!!」
「騒ぐな。水流の角度は皮膚に対して45度が最も異物除去効率が高い。……よし、異物除去完了」
律は清潔なペーパータオルでポンポンと水分を拭き取ると、傷口のサイズを定規で測り、ハイドロコロイド絆創膏をハサミで角を丸く切り落としてから、空気が入らないようピタリと貼り付けた。
ミリ単位の狂いもない、まるで機械が貼ったかのような美しさ。
「湿潤療法を適用した。これならば細胞培養が促進され、瘢痕を残さず治癒する。……包帯はもう不要だ」
「あ……全然痛くない……」
腕を動かすと、つっぱり感も痺れも綺麗に消えていた。
呆然とする俺に、律はスッと手を伸ばし――
ペリッ。
「ああっ! 俺の邪眼が!」
左目の眼帯を剥ぎ取られた。
「角膜および結膜に発赤なし。眼瞼下垂の徴候なし。視力低下の事実がないにもかかわらず健常な眼球を遮蔽することは、両眼視差による立体視を阻害し、階段からの転落リスクを3.8倍に引き上げるだけだ。没収する」
「返せよ! それ百均で200円したんだぞ!」
「放課後、生徒会室で生徒手帳の提示と引き換えに返却する。ただし再着用は認めない」
律はハサミと残った救急用品をケースに直角に戻し、パチンとフタを閉めた。
それから、中指で銀縁メガネをクイと押し上げる。
「田中くん」
「……な、なんだよ」
「自分を特別に見せたいという自己承認欲求の現れ自体は、思春期における心理発達段階として否定しない。しかし、その演出のために自己の身体という極めて精密な生体システムを損なうのは、極めて非論理的で愚かしい行為だ」
律の目は、バカにするような色をこれっぽっちも含んでいなかった。
ただ、壊れかけた機械を正しくメンテナンスした技術者のように、まっすぐ俺を見ていた。
「怪我を隠すために嘘を重ねる暇があるなら、傷が治るまでおとなしく静養しなさい。君の右腕は、世界を滅ぼすためではなく、明日の小テストで鉛筆を握るためにある」
そう言い残すと、律はタイルの目地を踏まない直進歩行で、スッと去っていった。
夕暮れの廊下に、俺は一人取り残された。
右腕に貼られた四角くて透明な絆創膏を、そっと撫でてみる。
痛くない。ちっとも痺れない。
「……ちぇっ。なんなんだよ、あの人」
眼帯を剥がされた左目で見た世界は、やけに輪郭がくっきりしていて、ちょっと眩しかった。
俺は羽織っていたカーディガンをちゃんと袖に通し、ボタンをきっちり一番上まで留めた。
「……フッ。我が右腕の呪いを、あの一瞬の術式で封じ込めるとはな……。恐ろしい男だ、白銀の執行者……」
強がりを呟きながらも、俺はちょっとだけ背筋を伸ばして歩き出した。
あの人の歩き方みたいに、タイルのマス目からはみ出さないように、まっすぐに。




