力積ゼロの放物線と体育教官の嘆息(体育科・2学年主任 剛田 勇作)
「惜しい……! 実にもったいねえ……ッ!」
秋晴れのもと、グラウンドに鳴り響くホイッスル。
俺――体育科主任の剛田勇作(ごうだ・ゆうさく、42歳)は、本部テントのパイプ椅子から身を乗り出し、メガホンを握りしめて頭を抱えていた。
視線の先には、2年生のクラス対抗競技『台風の目』。
4人一組で1本の長い竹の棒を持ち、コーンの周りをグルグル旋回しながらリレーする、チームワークと遠心力の制御が試される伝統種目だ。
そこに、あいつがいた。
2年A組、生徒会副会長・方正律。
体操服の裾はハーフパンツのゴムの中に1ミリのたるみもなく完全にイン。
ハチマキの結び目は後頭部の正中線上にきっかり直角。
準備体操の屈伸運動では、背筋と膝の角度が寸分の狂いもなく定規で測ったような90度を描いており、フォームの「見た目」だけならオリンピック選手も真っ青の美しさだった。
だが――。
「方正! コーナー回るぞ、踏ん張れッ!」
クラスメイトの男子が叫び、棒の端を軸にして外側の生徒が猛スピードで遠心力に引っ張られる。
普通なら遠心力に耐えるため、体を内側に傾けて低空飛行の姿勢をとるところだ。
しかし、律は違った。
「求心加速度 a = \frac{v^2}{r}に基づき、接地点における摩擦係数を最大化するため……ぬわああああっ!?」
棒を握ったまま、体幹の傾斜を1ミリも変えずに直立不動の姿勢を保とうとした結果、遠心力に綺麗さっぱり負けて「直立した棒人間」の形のまま、砂煙を上げて外側のスポンジマットへ吹き飛んでいった。
「あいつ……! 頭の中で力学計算して納得してから筋肉を動かそうとするから遅れるんだよ!」
俺は思わず額を叩いた。
方正律。
全教科満点、学年主席、眉目秀麗。
校内の女子からは「四角四面のプリンス」と騒がれ、職員室でも他教科の教師たちが「方正は東大理一も確実」「あんな完璧な生徒は開校以来だ」とベタ褒めしている。
だが、俺のつける『保健体育』の内申点だけは、ずっと「3」だ。
いや、ペーパーテストが毎回100点だからギリギリ3を保てているが、実技単体なら間違いなく「1」である。
走らせれば、右腕と右足が同時に出る「ロボット歩行」。
水泳をやらせれば、浮力と比重を真顔で計算しながら真下に沈んでいく「人間潜水艦」。
ボールを投げさせれば、手首のスナップを意識しすぎて真上に投げて自分の頭に直撃させる「自爆弾道ミサイル」。
頭脳、顔面、立ち姿、ぜんぶ100点なのに、スポーツだけが壊滅的にダメ。
惜しい。惜しすぎる。
神様はどうしてあいつに、あの美しい骨格を与えておきながら、運動神経というプログラムを丸ごとインストールし忘れたのか。
「おい剛田、方正のやつまた派手に転がったな」
隣で記録をつけていた数学科の間宮が、ニヤニヤしながら言ってきた。
「あいつの運動方程式は紙の上では完璧なんだがねえ。人体の筋肉という非線形なカオスに対応できないんだよ」
「笑い事じゃねえぞ間宮! 俺はあいつに『体を動かす気持ちよさ』を教えてやりたいんだ!」
競技はプログラム終盤、学年対抗の『大縄跳び』へ。
1クラス全員が息を合わせ、連続で何回跳べるかを競う大一番だ。
A組の列の中央。律はメガネのブリッジをクイと押し上げ、真剣な眼差しで大縄の回旋を見つめていた。
手にはストップウォッチ。
「クラスのみんな、動揺する必要はない」
律の澄んだ声がクラスメイトに響く。
「縄の角速度は一定だ。最高到達点から下降する周期 T = 0.85 秒の波形に対し、僕たちが垂直跳びの跳躍時間を 0.30 秒に同期させれば、干渉確率は理論上ゼロになる。僕の『せーの』の合図に合わせ、位相を完全に一致させなさい」
「お、おお……!」
クラスメイトたちが理屈に圧倒されて頷く。
回し手が縄を大きく回し始めた。
ビュン、ビュン、ビュン。
「いきます。……3、2、1、跳躍!」
律の完璧なカウントダウン。
クラス全員が一斉に跳んだ。
――律以外。
「……あっ」
タイミングを測りすぎて躊躇したのか、律だけがコンマ2秒遅れてピョンと垂直に跳び上がった。
結果、地面すれすれを通過した太いロープが、律の直角に伸びた足首を直撃。
バフォッ。
律は一切受け身を取ることなく、木の板のようにパタリと前方に倒れ、地面に顔面から突っ込んだ。
1回目、記録ゼロ回。終了のホイッスル。
「ぎゃああああ! 方正くんが倒れたーーーっ!?」
女子たちが悲鳴を上げ、本部テントから救護の生徒が飛び出そうとする。
俺はメガホンを放り出し、グラウンドを全力疾走した。
「おい方正! 大丈夫か! 鼻血出てねえか!?」
砂まみれの律を抱き起こす。
メガネは奇跡的に無事だったが、体操服の前身頃は真っ白、額には砂粒がびっしりついていた。
「剛田……先生……」
律はかすれた声で、ゆっくりとメガネの位置を中指で直角に直した。
「救護室行くか!? 担架持ってくるか!?」
「いいえ……外傷および脳震盪の徴候はありません……。ただ、僕の脳内シミュレーションと、下腿三頭筋の収縮速度の間に、およそ0.18秒のレイテンシ(遅延)が発生しました……。人体の生体信号伝達におけるインピーダンスの高さに、激しい遺憾の意を表明します……」
「怪我の心配より反省会が先かよ!!」
俺は思わず吹き出してしまった。
「方正、お前なあ! 大縄跳びは頭で跳ぶんじゃねえ、心と体でリズムを感じて跳ぶんだよ! 理屈を全部捨てて、周りの息遣いに合わせろ!」
「理屈を捨てる……? 非論理的です。客観的指標のない跳躍など、ただの当てずっぽう――」
「当てずっぽうでいいんだよ! 失敗したって死にゃしねえ! ほら立て、砂払え!」
俺がバシバシと律の背中を叩くと、律は「打撃による衝撃波が……」と顔をしかめながらも、クラスメイトたちの方を振り返った。
誰一人、律を責める奴はいなかった。
むしろ、あの「完璧な秀才」が盛大に顔面から転んだことで、クラスの緊張が一気に解けていた。
「ドンマイ方正! 次はカウントなしで、みんなで声出して跳ぼうぜ!」
「そうだよ方正くん、怪我なくてよかった!」
「……信じられない。僕のエラーにより記録がゼロになったにもかかわらず、クラス内のエントロピーが減少して結束力が増大している……。集団心理学のバグか……?」
律は砂のついた体操服を見つめ、心底不思議そうに首を傾げていた。
「バグじゃねえ、それが『青春』ってやつだバカ野郎!」
俺は笑いながら、律のハチマキをキュッと結び直してやった。わざと少し斜めにして。
「ほら、2回目いくぞ! 次は頭じゃなくて足使えよ、学年主席!」
「……先生、ハチマキの結び目が正中線から左へ15度ズレています。直してください」
「跳び終わったら直してやるよ! さあ行け!」
背中をドンと押されてグラウンドに戻っていく律の後ろ姿を見ながら、俺はポケットから採点表を取り出し、小さく笑った。
「……ったく。やっぱり実技は『2』だな。……でも、悔しそうに足の筋肉見つめてるその根性だけは、評価してやらんこともないがな!」
秋の青空の下、完璧なプリンスの、不格好で愛おしい体育祭が幕を閉じたのだった。




