修学旅行編:静かな放課後と、紅葉の小箱(生徒会庶務・1年C組 小日向 紬)
生徒会庶務・1年C組 小日向 紬
放課後の生徒会室は、驚くほど静まり返っていた。
2年生が京都・奈良へ修学旅行に旅立って3日目。
普段ならこの時間、カタカタと狂いのないメトロノームのようなタイピング音や、「小日向さん、名札の傾きが4度右上がりだ。訂正を求める」「書類をクリップで留める際は、紙の左上角から15ミリの対角線上を厳守しなさい」といった氷点下の小言が絶え間なく飛んでくるはずだった。
「……誰もいないと、なんか部屋が広く感じますね」
私は自分のデスクで、各部活動から提出された後期予算の申請用紙をとんとんと揃えながら、ぽつりと呟いた。
少し名札が曲がっていても、プリントの角がほんの少し折れていても、誰も何も言ってこない。
自由で、気楽で、怒られる心配もない天国のはずなのに――なぜだか、胸のあたりが少しだけ落ち着かない。
ガララッ!
勢いよく引き戸が開き、ジャージ姿の大きな人影が飛び込んできた。
「よーっす小日向! 留守番ご苦労さん! ほら、購買でアイス買ってきたから食おうぜ!」
両手にソーダ味のアイスキャンディーを持った、3年生の生徒会長・天王寺司先輩だ。
相変わらず元気いっぱいで、太陽のような笑顔を向けてくれる。
「わ、会長! ありがとうございます!」
「おう! どうだ、2年がいねえと生徒会室も広々してて快適だろ? 羽伸ばせてるか?」
天王寺先輩はドカッと律先輩の空席のパイプ椅子に腰掛け、アイスの棒を咥えながら笑った。
「あはは……はい。でも、ちょっと静かすぎて調子狂っちゃいます」
私はアイスを受け取りながら、綺麗に片付けられすぎている律先輩のデスクに目を落とした。
机の上には何ひとつ私物がなく、ペントレイも、電話機も、パソコンのモニターすらも机の縁とミリ単位の狂いもなく平行に並んでいる。本人がいなくても、強烈な存在感だ。
「……あの、会長」
「ん? なんだ?」
「私……正直に言うと、副会長のこと、ちょっと怖いんです」
思わず本音が口からこぼれてしまった。
「入ったばかりの頃、備品のホチキスの芯を詰め替えただけで『装填時のストロークが斜めだ、内部のバネの金属疲労を早める』って真顔で10分くらい講義されて……。笑わないし、言葉は冷たいし、何を考えてるのか全然わからなくて。会長みたいに、いつも笑って褒めてくれる人の方がずっと接しやすいですし、優しいなって思っちゃいます」
すると、先輩はアイスをガリッと一口かじり、豪快に吹き出した。
「ガハハ! そりゃそうだ! あいつの愛想のなさは全校一だからな。俺だって最初の頃は『なんだこの生意気なロボットは!』って毎日掴みかかりそうになってたぜ」
「えっ、そうだったんですか!?」
「おうよ」
天王寺先輩は天井を見上げ、懐かしそうに目を細めた。
「でもな小日向。あいつはな……不器用なだけで、意外とすげえ優しいんだぜ」
「副会長が……優しい?」
信じられなくて、思わず聞き返してしまう。
「あいつの『四角四面』はな、他人を攻撃するためのルールじゃないんだよ。誰も理不尽に損をしないように、誰も転んで怪我をしないように、世界を一番安全な形に整えようとしてるだけなんだ」
先輩は、律先輩の整然としたデスクを大きな手のひらでポンと叩いた。
「お前がミスした時、あいつ、決して『お前が悪い』とは言わねえだろ? 『フォーマットの動線が悪い』とか『マニュアルの構造的欠陥だ』って言って、新しいチェックシート作ってくれたりするじゃねえか。感情で怒るんじゃなくて、お前が次から恥をかかないように、傷つかないように、仕組みの方を直してくれてるんだよ」
「あ…………」
胸の奥を、トンと突かれたような気がした。
そうだ。
怒られた、怖かった、と怯えてばかりいたけれど、方正先輩は一度だって私個人の能力を否定したり、理不尽に怒鳴ったりしたことはなかった。
先輩が直してくれた新しい申請書のテンプレートは、ものすごく分かりやすくて、それ以来私は一度も書類のミスをしていない。
「あいつは感情を顔に出す筋肉がちょっと退化してるだけだ! でも、お前が本当に困って泣きそうになってる時は、絶対に見捨てねえから」
「……!」
「だからビビる必要なんてねえよ。あいつの小言は『今日も元気に世界を測ってます』っていう挨拶みたいなもんだ」
先輩がカラカラと笑う。
西日が差し込む静かな生徒会室。
私は空っぽのパイプ椅子を見つめながら、早くあの几帳面なタイピングの音が戻ってこないかな、と、さっきとは正反対のことを思っていた。
*
そして、修学旅行が明けた翌週の月曜日。
「失礼します!」
放課後の生徒会室。ガラリとドアを開けると、そこにはすでにいつもの光景があった。
ブレザーにシワひとつなく、ネクタイを直角に正した律先輩が、規則正しいキータッチでパソコンに向かっている。
「小日向さん。ドアの引き残しが2センチある。隙間風による室温低下を防ぐため、完全に密閉しなさい」
「あ……はいっ!」
いつもの小言。
でも、先週までと違って、その声がちっとも怖く感じられなかった。
むしろ、止まっていた時計の針がカチリと正しいリズムで動き出したような、不思議な安心感がある。
自分のデスクに向かうと、書類の端に、見慣れない小さな直方体の包みが置かれているのに気がついた。
上品な和紙で包まれ、深紅の紅葉の絵柄が描かれた小さな箱。
その箱の角は、私のデスクの端と、寸分の狂いもなく平行に配置されていた。
箱の上には、四角く整った几帳面な文字で書かれた付箋。
『京都銘菓・紅葉型干菓子。
留守中の生徒会室における書類管理および環境維持プロトコルの遂行に感謝する。
糖分補給による午後の業務効率向上を期待する。 ――方正』
「…………!」
思わず、息を呑んだ。
あの、慌ただしい修学旅行のスケジュールの中で。
秒刻みで京都の街を歩き回っていたはずの先輩が、私のために、この小さくて綺麗な四角い包みを選んで買ってきてくれたのだ。
顔を上げると、律先輩は画面を見つめたまま、銀縁メガネのブリッジを中指でクイと直角に押し上げていた。
横顔は相変わらずの鉄仮面。
「……副会長」
「賞味期限の印字なら箱の底面に記載してある。偽装はない」
「ふふっ、そうじゃなくて。……お土産、ありがとうございます! すっごく嬉しいです!」
私が満面の笑みでお礼を言うと、先輩はキーボードを打つ手を一瞬だけ止め、ほんのコンマ数秒、照れくさそうに視線を泳がせた。
「……業務に対する正当なインセンティブの付与だ。礼を言われる筋合いはない。それより、今日の提出書類の確認を始めるぞ」
「はいっ!」
四角い紅葉の小箱をそっと両手で包み込みながら、私は元気に返事をした。
相変わらず素直じゃなくて、世界一分かりにくいけれど。
やっぱりこの先輩は、誰よりも温かくて優しい「四角四面のプリンス」だ。




