四角四面の自由研究(小学4年生・方正 蒼太)
8月31日、午後2時。
俺――方正蒼太(ほうせい・そうた・10歳)は、目の前に広がる真っ白な模造紙を前に、完全に絶望していた。
終わっていない。
何ひとつ終わっていない。
算数ドリルと漢字ノートは昨日の夜、半泣きでやっつけた。だが、最後のボス――『夏休みの自由研究』だけが、手つかずのまま巨大な白い壁として立ちはだかっている。
向こうのリビングからは、母ちゃんと、律兄ちゃんの母ちゃん(志保おばさん)の笑い声が聞こえてくる。
「ねえ志保さん、このケーキ美味しいわね〜」
「でしょ〜? 律がね、8等分するのに分度器持ち出して45度きっかりに切り分けたのよ〜」
大人たちはのんきにお茶会中だ。俺のピンチに気づく様子はミリもない。
そんな中、俺の横をスーッと無音で通り過ぎようとする影があった。
従兄の、律兄ちゃん。
高校2年生。夏休み中なのにシワひとつない襟付きシャツを着て、背筋はピンと180度。銀縁メガネの奥の目は、いつも通り冷たくて、正直ちょっと怖い。
俺は関わらないように小さくなっていた。
だが、兄ちゃんの足がピタッと止まった。
「……蒼太くん」
「ひっ! な、なに、律兄ちゃん……?」
兄ちゃんはメガネを中指でクイと直角に押し上げ、俺の机の上を凝視していた。
その視線の先には、乳パックと、セロハンテープ。
「この模造紙のタイトル欄、『ぼくの自由研究』の文字だが。傾斜角度が右下がりに約7度、文字間ピッチが不均等、さらに使用しているセロハンテープの端が指紋で濁り、せん断応力に対する耐性が著しく損なわれている」
「うっ……だって、もう今日中に何か出さないと新学期怒られるし……」
「仮にも『研究』と銘打つ記録物において、初期設定からこれほどの視覚的エントロピーを放置するなど……僕の視神経が激しく拒絶反応を示している」
兄ちゃんは額に手を当て、深くため息をついた。
……いや、俺の自由研究なんだからほっといてくれよ!
「律兄ちゃん、あっち行っててよ! 俺は適当に牛乳パックで貯金箱作って、その作り方を書いて出すんだから!」
「貯金箱? あの底面が歪み、硬貨の投入口がギザギザに裂けた直方体未満の物体を提出する気かい」
「う……」
「他人の課題代行は教育的倫理規範に反する。しかし――」
兄ちゃんはすっと腕まくりをした。
その目は、いつになく鋭く光っていた。
「僕の目の前で、牛乳パックという極めて優れた幾何学構造が、無残に破壊されたまま社会(学校)に提出されることは、僕の美意識が断じて許可しない。……蒼太くん、模造紙を新しいものに交換しなさい」
「えっ?」
「テーマを変更する」
兄ちゃんはどこからともなく、ステンレス製の定規、ノギス、精密カッター、そして3色の油性ペン(すべて新品)を机の上にミリ単位で整列させた。
「題して――『1リットル紙パックにおける対角線折り込み角度と圧縮破壊強度の相関性、ならびに空間充填率の極大化に関する考察』だ」
「な、なに言ってるか全然わかんないんだけど!!」
「君が理解する必要はない。君は僕の指示通りに実験装置(体重計)に牛乳パックを垂直に配置し、荷重をかける作業員を務めなさい。データ測定開始だ」
そこからの4時間は、地獄のような、でも見たこともない世界の連続だった。
兄ちゃんの指示は異常だった。
牛乳パックの底をカッターで切る角度はすべて「45度」。
1回切るごとにノギスで厚みを測り、体重計の上にパックを立てて、上から百科事典を1冊ずつ乗せて「何キロの重さで潰れるか」を記録していく。
「見なさい、底面の折り目を直角から15度外側に補正するだけで、座屈荷重が1.4倍に跳ね上がる。これが幾何学的補強効果だ」
「つ、つぶれない……! 牛乳パックすげえ……!」
「牛乳パックがすごいのではない。直角とトラス構造が美しいんだ」
兄ちゃんが吐き出す難しい計算式を、俺は言われるがままにマスキングテープでガイドを引いた模造紙へ、定規を使って書き写していった。
グラフの線は寸分の狂いもなく直線。
添えられた写真(兄ちゃんのスマホから即座にカラー印刷された)は、完全に水平に貼り付けられている。
午後6時。
完成した模造紙が、リビングのテーブルの上に鎮座していた。
タイトル:
『家庭内廃棄物における板紙容器の構造力学的特性および減容化プロセスにおける数理モデルの構築』
――4年2組 方正 蒼太
模造紙には、小学生が書いたとは思えない美しい散布図、近似曲線、そして「考察」としてビッシリと並んだ論理的な文章。
リビングから戻ってきた母ちゃんと志保おばさんが、模造紙を見て目を見開いた。
「あら〜、蒼太くん、自由研究できたの? なんだか黒い線がいっぱいで難しそうねぇ」
「志保さん、これ……絶対律くんが手伝ったでしょ……?」
呆然とする母ちゃんたちの横で、律の兄ちゃんはきっちり道具をペンケースにしまい、満足そうにメガネを押し上げた。
「すべてのデータに再現性があり、結論に至る論理展開に破綻はない。これならば、蒼太くんの学内評価における下振れリスクは完全に回避された」
「あ、あのさ、律兄ちゃん……」
「なんだい」
「これ……先生に質問されたら、俺なんて答えればいいの?」
俺がおそるおそる尋ねると、兄ちゃんは至極真面目な顔で言った。
「『物理現象がそう語りかけてきた』と答えなさい」
「絶対ウソだろそれ!!」
――数週間後。
俺の自由研究は、なぜか学校を飛び越えて「県央地区児童生徒科学作品展」で県知事賞(最優秀賞)を受賞してしまった。
表彰式で壇上に立たされ、スーツを着たお偉い教授から「小学4年生にしてこの有限要素法的な着眼点、末恐ろしい才能です!」と握手を求められた時、俺はただひたすら冷や汗を流していた。
遠くの保護者席で、律兄ちゃんが腕を組んで座っていた。
誇らしげにするわけでもなく、周囲の拍手にも加わらず、ただ掲示板の賞状の傾き(約2度左上がり)をひどく不満そうに睨みつけていた。
……兄ちゃん、俺、もう二度と夏休みの宿題をサボらないよ。
だって、来年もあんな恐ろしい論文を書かされたら、今度こそ俺の頭が耐えきれずに圧縮されちゃうからさ。




