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愛犬のクッキー  作者: Satoru A. Bachman
23/26

23,

 23、


 暗闇の中で、自分の周りを囲っていた木の板とダンボールで出来た壁を必死にガリガリと爪で引っかいた。頑丈に出来ていてなかなか壊れない。それでもここから出なくてはならない。腹が減った。とにかく腹が減った。ダンボールとダンボールの繋ぎ目の微かな隙間に手を突っ込み、顔を突っ込み、その繋ぎ目を留めているガムテープに嚙みついたり、爪で引っかいたりして引き裂こうとするが、これも結構硬い。壁の向こうから人肉の匂いがする。その中にたっぷり包まった血が欲しい。繋ぎ目のすぐそばのダンボールに空いた小さな穴を広げようと爪で思い切り引っかいた。ザクっとダンボールの表面が裂ける。また引っかく。そして、また引っかく。バキッと音を立てて、爪が一本折れた。前脚から血が滴るが痛みは感じない。病気に侵され、すでに死んでいる自分の体には痛覚など無い。ダンボールの穴を広げるのは断念して、繋ぎ目を留めるガムテープにまた噛みついた。ガムテープは徐々に剝がれて、くしゃくしゃになっていく。テープの粘着面が額にくっ付いた。それから顔を離すとベリベリと音を立てて額に生えていた毛がごっそりと剝ぎ取られた。構わず、またガムテープに噛みついて、引っ張った。そして、押した。ベリベリベリとガムテープがダンボールから剥がれていく。ダンボールとダンボールの繋ぎ目は自分が通れるくらいの大きさになると、そこを這い出た。バリケードからとうとう出られた。廊下の先に少し開いたままのドアが見える。使い古した雑巾のようにぼろぼろの体を引きずるように廊下を一歩、また一歩と進んでいく。開いたドアに辿り着き、中へ入る。自分が“求めているもの”の匂いがぷんぷん漂っている。食欲をそそる人肉の匂い。それはベッドの上から漂ってきている。今は深夜。人間は眠っている時間。ベッドのそばに置かれたゴミ箱や机の椅子につまずきながらよじ登り、ベッドの上に辿り着いた。窓から差し込む月明りがベッドで眠っている疲れ果てた男の顔を照らしている。美味そう。美味そう。美味そう。さあ、食事の時間だ。こいつを貪り食ってしまおう。

挿絵(By みてみん)

自分には見えないが、口元がにっと笑っているように開いている。涎が糸を引いて垂れた。布団の上を這って、その男の顔に近づいていく。はあ、はあ、と息を吐き、そして、吸う。そのとき、なんだか、そのベッドで眠る男に食らいつくのが躊躇われた。吸い込んだ空気の中に懐かしい匂いが含まれていた。生前の微かな記憶。匂いほど記憶を甦らせるものはない。霊園や川岸で駆け回った若き日々。湖のほとりで歩いた思い出。散歩から帰った後にもらえるご飯。皿に盛られたペディグリーチャムやアイムスの香ばしい匂い(自分にはそれらのものの名称など分からないが)。具合が悪いときに連れていかれたあの体の大きなおばさんがいる病院。チュウシャというものをされたこともあった。あれは痛いから大嫌いだった。頭の中に蘇った数々の思い出。そのそばにはいつもご主人様がいた。このベッドで眠っているご主人様が。今まさに自分が食らいつこうとした男。そうだ、今、自分が感じた懐かしい匂いとは、ご主人様の匂いだった。

 クッキーの牙をむき出した顔が穏やかな表情に変わり、ご主人様の顔をペロペロ舐めた。そして、ベッドを離れた。大好きなご主人様に噛みつかないためにするべきことは分かっていた。リビングの網戸しか閉めていない戸をこじ開け、里見壮の庭に出て、よたよたと歩いて家を離れた。潮と芝生の匂いが混じった夜風が気持ちいい。ご主人様といつも一緒に歩いた散歩道を辿って住宅地を抜け、安房美船村駅のロータリーまで来た。そこにはプラスチックの皿に盛られた豪華なエサがある。ご主人様が“絶対に食べるな”と言っていたエサだ。数匹の蟻がたかっていたが、クッキーは構わずにそれを貪り食った。長時間、空腹に耐えた後の食事は格別だ。幸せだった。クッキーは体の中がじりじりと熱くなっていくのを感じた。エサに含まれた毒が体内を巡っている。死んで冷え冷えとしていた体が温まっていく。クッキーにとって、それは心地が良かった。

ありがとう、ご主人様。さよなら。





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