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4月下旬。
西野夫妻の愛犬のさくらは狂犬病に感染することもなく、温かい毛布の上で息を引き取った。16才の老犬の毎日の徘徊と粗相で世話に疲れた民子はほっと安堵の息をついた。ようやくさくらは安らかに眠り、虹の橋を渡った。民子は隣にいる貫太と目を見交わした。貫太はそっと民子の肩に右手を置いた。居間でさくらの最期を看取った夫妻は涙が枯れるまで泣いた。生後3か月だったさくらを動物愛護センターから引き取ったとき、夫妻はまだ定年退職前で元気にバリバリと仕事をしていた。中学校の国語教師だった民子は悪ガキたちを手なずけるエキスパートだった。ホテルの調理場で働いていた貫太は洋食を作る料理人だった。2人の息子たちはとうに大きくなり、巣立っていった。今64才で、毎週末テニスに通う民子と65才で町内の野球のクラブチームに入っている貫太はここ数年、それぞれスポーツを楽しんで、家では愛犬のさくらとのんびり暮らしていた。民子は毎朝毎晩、さくらと散歩に行き、貫太はときどき野球にさくらを連れていくこともあった。
茶色い雑種犬のさくらは勇ましい顔つきでどこか雌ライオンに似ている。だけど、人懐っこい性格で町内のアイドル犬だった。人間が大好きで、誰にでも寄っていき、“お座り”をして撫でてもらえるのを待っていた。隣の家のクッキーとも仲良しだった。
その翌日、僕は目を覚まし、ベッドから起き上がって朝日を浴びようと寝室の窓を開けると、里見壮と隣の西野家の間の狭い路地に見慣れない白い軽トラックが停まっていた。そのトラックの大きな荷台の側面には“ペット葬儀社 ひまわり霊園”と書かれている。僕が「まさか…」と思ったとき、貫太と葬儀社の業者と思われる男性が西野家から出てきて、そのすぐ後に民子が毛布にくるまれた眠るさくらを抱えて家から出てきた。僕は部屋を飛び出し、顔も洗わず、寝ぐせ頭のまま家を出た。
「卓くん、昨日ね、さくらが眠ったの」
民子が言った。だが、悲しそうというよりも民子の顔は穏やかだった。そのそばで涙を流しながらも笑みを浮かべて「うんうん」と頷く貫太。
西野夫妻のそんな様子から僕は“ご愁傷様です”なんて言葉が今の2人にかける言葉としては、なんだか、ふさわしくない気がした。こんなに優しい夫婦に飼われて、さくらはきっと最期まで幸せだったに違いない。僕はただただ、こくりと頷いて、民子の腕に抱かれた眠るさくらの頭を撫でて「今までありがとう、さくら。クッキーとも仲良くしてくれてありがとう」と感謝の気持ちを伝えた。目を閉じたさくらの表情はとても安らかだった。
路地に停まった例のトラックは言うまでもなく、ペットの移動火葬車だった。民子が摘んできた花に囲まれて火葬炉の中に送られていくさくらを見送った。僕の目からも涙が流れた。
その日の午後、僕はまた、ふらふらと町を歩いた。当ても無く。
自販機で買ったモンスターエナジーカオスを味わってちびちび飲みながら楓川沿いのグラウンドや町を眺めた。家々、数百メートルおきに立つ鉄塔、散在する墓場、遠くに聳え立つ時計塔、街を囲む山々、視界に入ってくるのはそれだけ。素朴な景色だが、不思議と見飽きることがない。この美船市という小さくて退屈な街を世界一愛している人間はきっと僕に違いない。楓川沿いの土手を海岸まで歩き、水没したペンションが立つキャンプ場の前まで行って引き返すことにした。
帰り道、安房美船村駅の近くの路地を歩いていると、馬鹿みたいにギャンギャン吠える犬の声がどこかから聞こえてきた。ヤベッ。きっと血に飢えるゾンビ犬だ。とうとう市街だけでなく、郊外まで感染が広まったのだろうか。そのとき、
「うるせぇんだよ、バカ犬!!」
と怒鳴りつける男の声が一本隣の通りから聞こえてきた。よく知っている声だった。その声がしたほうには、たかお珠算塾がある。僕の背筋が一瞬、凍りそうになったが、僕は好奇心に負けて、路地を曲がり、隣の通りにある珠算塾のほうを塀の陰から覗いた。
「ギャン、ギャン、ギャンッ」
たかお珠算塾のガレージに置かれた犬小屋から吠えるヨークシャーテリアの姿が見えた。赤城山家の犬のマイクだ。吠え声の合間にはグルルルルッと喉を鳴らしている。
「うるせぇつってんだろッ!」
怒鳴って小屋を蹴りつける孝夫。
「ギャン、ギャン、ギャン!」
小型犬の耳障りな高い声。マイクは犬小屋から飛び出し、眉間にしわを寄せて孝夫に向かって牙をむき、嚙みつこうとした。
「うわああああっ」
孝夫は悲鳴を上げて、後ずさり、ガレージから外へ出て尻もちをついた。ロープで繋がれているマイクは孝夫が倒れこんだぎりぎりのところまで駆けてきた。外へ出てきて陽の光を浴びたマイクの目が緑色に光った。僕は即座にその場を離れた。もう駄目だ。あの犬は助からない。マイクのことを気の毒に思う反面、あのクソ親父が嚙み殺されてほしいと一瞬思ってしまった。僕は古びた家々が並ぶ路地を駆け抜け、安房美船村駅の前のロータリーを抜け、里見壮まで突っ走った。そして、家の中に入り、安堵の息をついた。




