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愛犬のクッキー  作者: Satoru A. Bachman
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19,

 19、


 また夜が明けた。窓から差し込む太陽の光。僕は布団から出て起き上がり、いつものように窓を開けた。さわやかな香りの風が窓から吹き込む。4月も間もなく終わる。緑が生い茂り、少し温かくなった気がした。町は静まり返っている。死んでいるかのように。

 寝室を出て、朝一の長い小便を済ませた後、まず向かったのはクッキーがいる廊下だった。目が緑色に濁ったクッキーは僕の姿を見るなり立ち上がった。

「よう、クッキー」

僕は寝起きでトーンの低い声で言った。異臭が漂う廊下。

クッキーは「ワン!」と吠えた。

僕は注射針風の容器に老犬用の流動食を注入しながら驚いてクッキーのほうを振り向いた。ここのところ老いて元気が無かったクッキーがそんなふうに吠えるのを聞いたのは久しぶりだった。

「クッキー、飯だぞ」

僕はそう言い、足元に寄ってきたクッキーの口の中に注射針風の容器の先端を入れて、餌を注ぎ込んでやると、クッキーはまるで母の乳に吸い付く腹をすかせた赤ん坊のように夢中になって流動食をがぼがぼと飲み込んだ。

「お、腹減ってたんだな、お前」

容器が空になると、僕は少しおかわりを容器に注入してやった。いつもより食欲のあるクッキー。再び容器が空になると、僕はクッキーの口から容器の先端を引き抜こうとした。クッキーは容器を口から放さない。僕は容器を引っ張った。それでもクッキーは放さない。今度は少し強く引っ張った。クッキーは意地でも放そうとしない。

「おい、なんだよ、クッキー?もっと食いたいのか?」

またおかわりをするにしてもクッキーが放してくれないと容器に餌を入れてやることが出来ない。

「放せ」

僕はそう言い、無理やり容器を口から放そうとするが、それでもクッキーは放さない。緑の目をしたクッキーは容器をくわえたまま牙をむき、眉間に皺を寄せていく。

「おい、なんだよ」

僕は恐怖を感じた。赤城山孝夫に向かってギャンギャン吠えていたマイクと同じ顔をしている。“なんだよ”と言ったが、僕は心の中では状況を理解していた。だが、信じたくなかったのだ。自分が直面している紛れもない事実を。廊下に漂っている異臭はなんだか肉が腐ったような臭いだ。その臭いは目の前にいる愛犬から漂ってきている。そうだ、もうクッキーはゾンビ化している。僕は思い切り容器を引っ張り、クッキーの口から引っこ抜いた。カチッというクッキーの上の歯と下の歯がぶつかる音が響いた。クッキーはその途端、容器を持っていた僕の右手に噛みついた。

「あああああっ」

僕は大声を上げた。

「いてぇよ!放せッ!いッ…」

クッキーを振り払おうとするが離れない。グルグルと鳴るクッキーの喉の音がする。僕の親指の付け根に激痛が走る。食い込む牙。熱い血が噴き出す。手が痛みに加え、じりじりと熱を帯びる。

「ううっ…いってぇ!」

僕は必死にもがいた。

利き手じゃない左手でクッキーの頭や背中を殴った。思うように力が入らないが、何度も殴った。

「放せッ!」

僕はクッキーの顔をひっぱたいた。クッキーは「キャンッ」と高い声を上げ、ようやくクッキーの牙が僕の手から放れた。僕はゾンビと化した愛犬を蹴り飛ばした。廊下からリビングに入り、ドアを閉めた。僕はそのドアに寄りかかりながら座り込んだ。血とクッキーの涎でびしょびしょになった右手を左手で押さえながら。ズキズキと脈打つような感覚が右手に走る。

「ああああ…」

ドクン、ドクン、ドッ、ドッ、ドッ、傷口が脈打つ。僕の右手の中で悪魔がワッハッハッハと大笑いをしているかのように。僕は洗面所で手を洗い、傷口を入念に洗った。





 家にあった絆創膏だけでは、傷を覆いきれなかった。ゾンビ犬のいる廊下を通って玄関には行けないから、寝室の窓から外へ出て、安房美船村駅のそばの薬局まで靴を履かずに歩いて包帯を買って、右手にぐるぐると巻き付けた。レジで金を払うとき、店員のおばさんが

「救急車、呼びましょうか?」

と聞いてきたが、僕はただ首を横に振って店を出た。そりゃ、そうだ。血だらけで靴を履いていない男を見たら誰だって、それを普通の光景だとは思わないだろう。僕は他人の目なんて気にしていられる心境ではなかった。裸足で外を歩くのなんて小学校時代以来だ。冷たいアスファルト、ちくちくする芝生、踏むと痛い小石。子供の頃はそういったものなんて一切気にならなかった。でも大人になった今は、それらの不快な感覚一つ一つが地味に体力を奪っていく。線路沿いを歩いて、霊園前駅の近くのスーパーでダンボールを3、4枚もらって、そのすぐそばのホームセンターで木の板、ビニール紐、ガムテープを買った。

また会計の際に店員のおっさんが

「大丈夫ですか?」

と聞いてきたが、僕は「はい」とだけ答えて店を出た。その足でマクドナルドに寄って、ビッグマックセットを買った。美船市営霊園の東屋のベンチに座って、僕はむしゃむしゃ貪り食った。ポテトは大きいサイズにしたが、全てをぺろりと平らげた。世界はパンデミック状態だが、コンビニやホームセンターやファストフード店は開いていたから助かった。



 午後2、3時頃。クッキーがいつも爆睡している時間。僕は頃合いを見計らって、眠っているクッキーの周りにダンボールと木の板で四面の壁を作った。数枚重ねた板やダンボールをビニール紐で縛ってまとめて分厚くして、ガムテープでしっかりと四面の壁の繋ぎ目をくっつけた。僕は噛まれないためにそのバリケードにクッキーを閉じ込めて、世話をすることにした。


“……、目が緑色に変色していたり、腐敗臭がある場合には、それらは凶暴化の兆候と見られます。犬を飼われている方はただちに飼い犬の様子の確認をお願い致します。感染の兆候が見られる場合には、犬を市に引き渡すよう、ご協力お願い致します。引き渡し場所は市庁舎前の噴水広場とさせて頂きます”


僕の頭の中に、先日市内で流れていた放送が蘇ってきた。そして、あの噴水広場でみた地獄のような光景。

ふざけるな。僕はクッキーを市なんかに引き渡す気は無かった。



 クッキーは起きると、ときおりバリケードの中で暴れるが、体の小さいクッキーはその頑丈な壁を壊すことは出来ない。僕は中学校時代に修学旅行で行った長野の諏訪湖の辺りの土産屋で買った木刀をクローゼットの中から見つけた。その木刀の先に糸をつけて、糸の先に犬のビスケットやチューイングボーンをぶら下げて、バリケードの中に入れる。すると、クッキーは飛びついてそれらを貪った。木刀なら、“いざ”となったときに武器として使える。僕は“いざ”とならないことを願った。皮肉なことに、流動食しか食べられなかった老犬のクッキーがゾンビ化したお蔭で硬いものまで食べられるようになった。ビスケットやチューイングボーンがカリカリと嚙み砕かれる音を聞くと、僕はちょっぴり嬉しい気もした。クッキーが若返ったのだと。僕はバリケードの中を覗いた。耳がぴんと立っている、コロネのように巻いた尻尾をした美しい柴犬のクッキー。だいぶ毛は白くなっているし、口の周りは僕の手に噛みついたときに噴き出した血で真っ赤に染まってしまっているが…、15年も一緒に過ごしてきた愛犬はゾンビになってもやっぱり可愛かった。

だが、もうこいつはクッキーじゃない。ゾンビ犬だ。クッキーはもう死んでいる。





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