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ウー、ウー、ウー!
美船市内にサイレンが鳴り響いた。
サイレンの後に市役所の職員と思われる女の声が放送を始めた。
“市民のみなさん、現在、美船市では、世界中で感染拡大しているコロナウイルスに加え、謎の狂犬病が蔓延しております。その病気についての情報は何も分かっておりません。一度感染した犬は病状が悪化すると、人を襲い、死傷者も出ている状況です。目が緑色に変色していたり、腐敗臭がある場合には、それらは凶暴化の兆候と見られます。犬を飼われている方はただちに飼い犬の様子の確認をお願い致します。感染の兆候が見られる場合には、犬を市に引き渡すよう、ご協力お願い致します。引き渡し場所は市庁舎前の噴水広場とさせて頂きます”
寝室の部屋の窓を開けて、ぼうっとその放送を聞いていた僕は胸がむかむかした。クッキーは感染してなんかいない。そう信じたかった。市に引き渡しとは、いったいどういうことだ。引き渡された犬たちはどうなってしまうのだろうか。僕は寝室から廊下に行き、愛犬の様子を伺った。クッキーはタオルケットの上ですやすや眠っている。今朝、世話をして以降、ずっと眠っている。顔は安らかだった。
「クッキー」
なんとなく、僕はそう囁いた。それに反応してクッキーの耳がぴくりと動いた。
僕はクローゼットから少年野球で使っていたバットを取り出し、それを護身用の武器として持って、家を出た。またいつゾンビ犬が表れるか分からないから、辺りを警戒しながら安房美船村の住宅地を抜け、楓川にかかる石橋を渡って市街地を目指した。
ワォオーン。まるで月に向かって吠える狼のような咆哮がどこかから聞こえた。灰色のどよーんとした空の下、僕は歩いた。逃げ場の少ない狭い路地をなるべく避けて、西木大通りを海岸に向かって歩き、海岸沿いの国道127号を北に向かった。そして、楓町の玉寺アーケードから市街地に入っていった。人が狂犬に襲われた現場なのだろうか、街の色んなところにバリケードで囲われて入れない道があった。“立入禁止 美船市警察”と書かれた黄色と黒の縞のテープが張り渡されている。商店街を抜け、美船総合病院の裏の路地を歩いた。
キャィーンッ!ワォンッ!キャンッ!キャーンッ!
複数の犬たちと思われる悲痛な叫び声が聞こえてきた。腸の辺りに不快感を覚えるような痛々しい悲鳴。そして、焦げ臭い不快な空気。普段の生活では臭ってくることのない悪臭。まれにだが、美船市営霊園のそばの火葬場から漂ってくる臭いに似ていた。路地を抜け、病院と隣接する市庁舎の建物の前にある噴水広場に出たとき、僕はそこへ来たことを心の底から後悔した。
噴水広場の中に5カ所ほど設置された焚火から炎が上がっている。炎の麓には丸焦げになった犬たちが横たわっていた。焼かれているのは犬たちだった。焚き火の前には、犬を抱きかかえて泣きながら愛犬との別れを惜しむ飼い主たちの列が出来ていた。設置されたテントの前で市の職員が広場へやってきた市民たちにメガホンで指示を出している。
“感染初期段階の犬は安楽死。凶暴化が始まっている犬は焼却処分です。安楽死はテントへ。焼却処分は焚火へ。早く並んで下さい!繰り返します、感染初期段階の犬は安楽死。凶暴化が始まっている犬は…”
血も涙も無い言い方だった。おまけにその職員の表情には焦りと苛立ちの色が見られた。僕は込み上げてくる吐き気を堪えて、走ってその場を離れた。道の途中、街のところどころにプラスチックのお椀のようなものが置かれ、その中にはペディグリーチャムのようなドッグフードが盛られていた。犬が好みそうな肉である。そして、そばには数匹のゾンビ犬の死骸が転がっていた。きっと警察が狂犬退治のために仕掛けた毒エサに違いない。
気づくと、日が暮れかかっていた。楓川に差し掛かったとき、土手のベンチに座ってコーヒーの缶を片手にぼうっとしている暇人がいた。それは僕の親友の山本だった。
「よう」
僕は声をかけた。
「おう、卓。どうしたんだ、死にそうな顔して?」
そう聞いてくる山本。僕はこのとき、顔面蒼白していたに違いない。僕は後ろを振り返り、市街地から上がる煙をあごで示した。
「あそこで感染した犬たちが焼かれてる」
「なんだって!?それはむごいな」
2人で緑のアーチがかかった美船ゲートブリッジを渡って、安房美船村へ行った。
クッキーのトイレを済ませるため、僕はタオルケットの上で相変わらず寝転がっているクッキーを抱きかかえて外に出た。山本が世話を手伝ってくれた。安房美船村駅の前のロータリーの中央の芝生で小便と糞をさせ、僕が糞をシャベルで埋めている間、山本がクッキーのリードを持っていてくれた。クッキーがよたよたと歩き出した。クッキーが向かおうとした先の路地には、肉が盛られたプラスチックのお椀が置かれていた。
「おい、何か犬のエサが置いてあるぞ」
山本が言った。糞の始末をしていた僕はそちらを振り向き、
「ダメだ!」
と叫んだ。そそくさと愛犬に駆け寄った。肉の匂いに引き寄せられるクッキーを抱きかかえ、その毒エサから離れさせた。
「あれは絶対に食べちゃダメだぞ、クッキー」
と僕は厳しい口調で言った。クッキーの愛らしい整った顔をじっと見た。舌をぺろりと出すクッキー。そんな僕を見つめる愛犬の眼球は真緑色に染まっていた。
「あれ何だ?」
そう聞く山本。
「狂犬退治用の毒エサだ」
すっかり日も暮れ、クッキーを寝かせた後、僕と山本は最寄りのセヴンイレブンで買ってきたおにぎりを食って、カップヌードルをすすった。その晩、比較的安全な郊外にいたいと言う山本を僕の家に泊めた。僕もずっと独りで気が狂いそうだったから友人が一緒にいてくれて嬉しかった。




