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愛犬のクッキー  作者: Satoru A. Bachman
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14,

 14、


 西野夫妻と近所のおばちゃんたちが路地で立ち話をしていた。民子は家から出てきた卓に気付くと、

「卓くんは体調とか大丈夫?」

挨拶よりも先に安否を伺ってくる。

「俺は大丈夫です!西野さんは?」

「私たちも大丈夫よ。まだこの辺には感染者はいないみたいだけど、気を付けるんだよ」

「はい」

僕が答えると、民子とその隣にいる貫太は僕のほうを見て微笑んだ。貫太が手に持っているリードに繋がれたさくらがぐるぐる辺りを歩き回っていた。時計回りにぐるぐると。これも老いた犬によく見られる徘徊行動である。通りすがりにそんな西野夫妻の愛犬の頭を撫でてやり、僕は行く当ても無く安房美船村の住宅地を抜け、楓川にかかる石橋を渡った。美船市の中心街である楓町のほうからパトカーや救急車のサイレン音が鳴り響いている。警察の声と思しき、何かを訴えるメガホンで拡張された声が市街地の方から響き渡ってくる。ここからでは何を言っているのか、遠すぎて聞こえないが、ただ事ではなさそうだ。いったい何が起きてるんだ?

川岸の茂みからガサガサと音がした。思わず僕はそちらを振り向いた。黒い犬が茂みから表れ、こちらへ歩いて寄ってくる。眼球が緑色に濁り、牙をむいた犬。眉間に皺を寄せ、敵意むき出しの恐ろしい形相。まいったな。こりゃ、本当にまいった。ぐるぐると喉を鳴らしながらこちらへ一歩一歩ゆっくりと近寄ってくる犬。どうすりゃいいんだ。体中の節々ががくがくと震える。頭の中が真っ白だ。冷静になれ、冷静になれ。僕は心の中でそう自分に言い聞かせた。背を向けて逃げてはいけないのではなかったか?目を見たままゆっくりと後退して遠ざかるべきか…。いや、それは野生の熊と出くわしたときの対処法ではなかったか。じゃあ、ゾンビ犬を目の前にしたときはどうする?腐肉の酸っぱい臭いが漂う。こうしているうちに犬はとうとう駆け出し、僕に飛び掛かってきた。

「あああああっ!」

僕は悲鳴を上げながら倒れたが、その黒い犬を振り払おうとそいつの胴体を両腕で思い切り掴んだ。ゾンビ犬の毛の下のぬめぬめとした皮膚に僕の指がぐちょりと食い込む。ゾンビ犬は僕の首に噛みつこうと牙をカチカチ鳴らしながら空気を噛み砕く。体を押さえつけているから、そいつの頭部はかろうじて僕の首には届かない。いつまで押さえつけていられるか。かなり力のある中型犬。暴れるそいつの爪が僕の腹を引っかき、皮膚の表面を裂いた。

「うあああっ!」

また悲鳴を上げてしまった。

パンッ!!

そのとき、凄まじい音が鳴り響き、僕に食らいつこうとしていたゾンビ犬の頭部の右半分が血しぶきを上げて砕け散った。犬は動かなくなった。

何が起きたのかも分からないまま、僕はそこへやってきた警察に体を起こされた。まだ銃口から煙を吹いているピストルを持ったそのお巡りは二木隼だった。

「ありがとう、ずんさん」

僕は引っかかれて痛む腹を押さえながら礼を言った。

「無事で良かった。すまんが、今、傷の手当てをしてやる時間は無い。街は大変なことになってる!すぐに帰りなさい!」

二木に怒鳴られるように言われた僕は腹の痛みに耐えながら、こくりと頷き、来た道を引き返した。二木は市街地のほうへ駆けていった。


 それほど酷い傷ではないが、ひりひりと痛む切り傷に次第にズキンズキンと脈打つような感覚が走る。腹を押さえる僕の右手は血でぬるぬるとなっていた。

「ってぇ…」

僕は息を切らしながら土手を離れ、安房美船村の住宅地に戻ってきた。向かう先に見えている安房美船村駅のそばのたかお珠算塾のひさしの下でタバコをぷかぷかと吹かしながらぼうっとしている赤城山孝夫の姿が目に入った。こんなときに嫌な奴登場。僕は素通りしようとした。

「おい、お前!世界がこんな状態だっていうのに何のこのこ外出してんだコラッ!」

孝夫は僕を指さして怒鳴ってきた。

「おまけになんでマスクしてねえんだよ!」

そう怒鳴る彼自身もマスクをせずに血色の悪い醜悪な顔を晒している。僕は彼をシカトして、珠算塾の前を通り過ぎた。

「聞いてんのかコラッ」

悪魔のようなしゃがれた怒鳴り声が聞こえたかと思ったら、僕の視界の中に白い光が瞬き、頭部に激痛が走り、僕はその場にくずおれた。孝夫に頭を殴られたのだ。一瞬、朦朧とした意識がまたはっきりすると、僕は痛みを無視した。身の危険を感じ、とっさにその舗装されていない田舎道の地面から小石と砂を掴み、後ろを振り向き、孝夫の顔に思い切り投げつけてやった。小さな石が顔のところどころに当たり、砂が目に入り、

「あああっ!こんちくしょおおっ、いってぇ」

と孝夫は怒鳴りながら顔を押さえる。そして、真っ赤になった両目から涙を流しながら悪態をつく。

「何しやがんだ、このヤローッ!」

僕はそのアル中のクソ親父のでっぷりとした腹に蹴りを入れた。この憂鬱な日々へのストレス、世間のほとんどが機能していない先の見えない毎日への不安、そして、この暴力男に対して抱いた憎悪、全てがないまぜになった感情を込めた怒りの一蹴り。マスクを着けていない人間を攻めたりする“マスク警察”なんていう連中がいるようだが、町内でも噂のこのDV親父はマスク警察ではなく、ただ人を痛めつける口実が欲しいだけだ。孝夫は情けなく裏返った女々しい声を上げて泣きながら地面に倒れた。僕はまた歩き出した。

「あああぁ、いてえよぉ。助けてくれ…」

泣き続ける孝夫の不快な裏声が通りに響いた。僕はいっさい振り返らなかった。




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