12,
12、
次の日の朝、僕は目を覚ますと、部屋の窓を開けた。さわやかな香りの風が窓から吹き込む。沈丁花と潮の匂い。寝室を出ると、家の中に異臭が漂っていた。まずはトイレで膀胱に溜まりに溜まった朝一の小便を済まし、すっきりした気分で廊下へ出た。“異臭”の元が何なのかは想像がついた。案の定、ペットシートはクッキーの小便で黄色く汚れ、その上、糞もたっぷりとその上に乗っかっていた。クッキーはその横で寝ていたが、ご主人様が起きてきたことに気づくと、のっそりと起き上がり、僕の足元によたよた歩いて寄ってきた。クッキーは目が回っている様子はなく、落ち着いていた。良かった。僕はまた安堵の溜息をついた。だが、鼻をつく悪臭に胸が気持ち悪くなる。今はまだ空きっ腹だったことに感謝した。家の全ての窓を開けた。糞を汚れたペットシートで包み込んで丸めて、ビニール袋に入れて臭いが漏れないように縛ってゴミ袋に放り込んだ。ペットのトイレシートを敷いてあった箇所の周辺の床が少し小便で濡れてしまっていた。仕方が無いことなのだが、僕は強烈なアンモニア臭と便臭にうんざりして、それが目に入った途端、舌打ちをしてしまった。ティッシュペーパーで拭き取り、ファブリーズで消臭した。それなのにどこかからまだうんこの臭いがする。よく見ると、足元で僕をじっと見つめてくるクッキーの前足や脇腹の辺りに茶色い糞がこびりついていた。
「あああっ、カンベンしてくれ…」
僕はつい、そんな言葉を吐いてしまった。
「お前…自分のうんこ踏んずけやがったな」
僕はクッキーを抱え、風呂場へ行き、シャワーで体を洗ってやり、犬用のシャンプーで糞の汚れを落としてやった。きっと、クッキーは目が回ってふらふらな状態で用を足して、うんこの上に転んでしまったに違いない。その後、流動食を与えて、薬を飲ませて、タオルケットの上に寝かせてそっとしといてやった。
また夕方、小便で濡れたペットシートを取り換えて、流動食をやった。
次の日の朝、僕は目を覚ますと、窓を開け、さわやかな香りの風を思い切り、吸い込んだ。そして、家の中にまた異臭が漂っていることを覚悟して寝室を出た。だが、昨日ほど強烈な臭いはしなかった。僕はまずトイレで朝一の小便を済まして、廊下へ行くと、クッキーはもう起きていたが、僕の足元には寄って来ず、頭をふらふらさせていた。あまり調子が良くなさそうだ。クッキーの頭を撫でながら、その傍らに敷いたペットシートを見た。小便で濡れているだけだった。僕はまたまた安堵の溜息をついた。ペットシートを取り換え、クッキーに流動食と薬を与えた。それから数日、クッキーは糞をしなかった。
ある平日(自粛生活のせいで曜日の感覚がほぼ無くなっていた)の午前中、薬が切れて、僕はまともに歩けないクッキーを両腕で抱えて、安房美船村から歩いて楓川にかかる古びた石橋を渡り、西木大通りの木南動物病院へまた行った。そのとき、クッキーは大橋先生にケアをされながら診察台の上で大量に糞をひり出した。
「あらあら、クッキーちゃん、いっぱい出たねぇ」
と大橋先生や他の獣医師たちは優しくクッキーを労り、糞を処理してくれた。
「すみません」
と僕は大橋先生たちに何度も頭を下げた。
「大丈夫ですよ」
と先生たちは快く対応してくれたが、僕は先生たちに対しても、クッキーに対しても酷く罪悪感を感じた。
また処方された薬を買って、動物病院を後にした。僕の腕の中でクッキーは顔を上げ、僕の目をじっと見つめてきた。楓川の河川敷のベンチに座って、僕はクッキーに話しかけた。
「もしかしてお前…家の中でうんこを垂れると、ご主人様が嫌がるから、ずっと何日も我慢してたのか?ごめんな…クッキー。苦しかったよな…」
僕のまぶたの裏が熱くなり、目から涙がこぼれた。僕は愛犬を抱きしめた。そんな涙で濡れた僕の頬をクッキーはぺろぺろと舐めてきた。
なんだか精神的に疲れた僕はその日の午後、家を出てふらふらとあてもなく歩いた。安房美船村の住宅地を抜け、田んぼ道を進んで、市の最南端にある美船自然公園まで行った。マイナスイオンたっぷりの園内の「野鳥の森」というエリアを歩き、杉林を抜け、草原に出ると、そこにある古びた東屋の休憩所で座って休んだ。クッキーが若かった頃、よくここで一緒に歩いたものだ。いや、走った。散歩というか“散走”だった。僕が息切れしても、クッキーはどこまでも走りたがった。いつも手が痛くなるくらいにリードをぐいぐい引っ張っていたクッキー。「ちょっと待て!クッキー!手痛いよ」と文句を言うこともしばしばあった。近頃、年をとった愛犬は昔みたいに元気にたったか走り回ることは全く無くなった。やっぱりクッキーはもうすぐ…?そう考えないようにはしているが、僕は心のどこかではなんとなく分かっていた。
そばにあった自販機でモンスターエナジーを買って、ちびちび味わって飲みながら再び歩き出した。僕にとってモンスターエナジーは、エナジー補給のために飲むのではなく、美味しいから好きなのだ。そして、目が覚めるようなカフェインの効果が気持ちいい。嗜好品といったところだろう。梅林を歩いて、野草園を歩いて、公園の中央にある池にかかった赤いアーチの紅葉橋を渡った。美船自然公園を抜けると、田舎道が続き、楓川の土手に出た。川の向こう岸には寂れた野球グラウンドがある。南西木少年野球広場だ。ベンチの傍らに西木ジャイアンツと書かれた青いのぼりが掲げられている。僕は川岸を歩き続け、美船ゲートブリッジを通り過ぎると、その先は海岸だった。海岸の少し手前には水田のような池が広がり、その中央部には不気味な古い木造のペンションが水面から生えているかのように散在している。海面の上昇が原因なのか理由は知らないが、そこは水没してしまったキャンプ場である。まだ寒さの残る4月だからマシだが、学生時代に夏の夜にここへ友人たちと肝試しに来たときは偉い目に遭った。酷いヘドロ臭が鼻を刺し、蚊の大群に襲われ、顔や手足の60箇所ほど刺されて、僕らは体中をかきむしった。辺りには血のような赤い光を放つ無数のカメノコテントウが飛んでいて、懐中電灯で照らす先々に異星生物のように不気味なキマダラカメムシがいて、10分も経たぬうちにお手上げだった。
僕が歩いている道の先に“この先、通り抜け出来ません”と書かれた看板が掲げられ、カラーコーンとバーで道が塞がれ、青いユニフォームの警備員が立っている。これより先は行けないか、そろそろ帰るか、と思い始めたとき、そこに立っていた警備員がこちらに手を振ってきた。よく見ると、そいつは知っている顔だった。
「おう、山本!」
その長身で細身で爽やかな警備員は僕と同じ“地元から一歩も出られない族”の山本だった。
「よう!」
と向こうも言ってきた。
「こないだはありがとな!助かったよ」
僕は動物病院に車で連れてもらった件の礼を言った。
「いいんだよ。クッキーちゃん大丈夫か?」
「ああ。今は目がぐるぐる回るのは治まってるみたいだ。今朝も薬飲ませて、今はそっとしといてる」
「そっかぁ」
「ところで、世間が…いや世界がこんな状態だけど、お前仕事なのか?」
自粛ムードの中、明らかに今、勤務中である山本に僕は訊ねた。
「ああ。自粛生活が退屈だからって、都会からこういう田舎に遊びに来る馬鹿がいっぱいいてさ。美船ピアとか時計塔とか楓沼とか、この近辺の観光地にはうちの会社の警備員が誰も入ってこないように見張りに出されてるんだ」
「そうなのか、そりゃ大変だな」
「ああ、でも、こんなところに突っ立ってると基本は暇だよ。さっきから退屈すぎて、エロ動画を2つもダウンロードしちまったよ」
僕は「くっくっく」と笑った。友人としゃべって少し元気が出た。
山本としばらく立ち話をして、僕は帰途に着いた。




