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自粛生活に入って10日も経つ頃には、僕は退屈で孤独で気が狂いそうだった。唯一、いつも一緒にいてくれるクッキーも年を取って元気が無いし、あまり長く散歩に出かけることも出来ない。だから、高校時代からの友人の山本貴士に連絡を取ってみた。安房美船村から川を挟んで隣町である西木町に住んでいる彼も案の定、暇していたらしく、世間はこんな自粛ムードであるにも関わらず、僕の家へ遊びに来てくれた。
同い年の山本は、学校は違ったけど、僕の出身校である楓川学園のライバル校である玉寺高校に通っていた。お互い陸上部に所属し、出会った場所は美船の森スポーツ公園の陸上競技場だった。僕は優秀な選手ではなかったが、山本は100メートル走で10,73秒という記録を出し、県大会に出場した。だが、そんな彼も高校時代という人生の最盛期が過ぎると、三流の大学を出て、ゴミ収集、リラクゼーション、居酒屋、引っ越し屋などの仕事を転々として、今は工事現場の警備の仕事をしている。山本も僕と一緒で“地元から一歩も出られない族”である。
棚はコレクションのハリウッド映画のヒーローや化け物のフィギュアだらけで、少々散らかった僕の部屋で山本と2人でまだ発売されたばかりのバイオハザード3のリメイク版をやりながら色々語った。酒を飲まない僕らはモンスターエナジーを片手に持って「おつかれ!」と乾杯をして、仕事の話やら、僕が付き合っていた由香と最近別れてしまった話など、男の仲間どうしのありきたりな話を延々とした。
「そういや、最近、この辺で狂犬が出没するって?」
突然、山本がそう言いだした。
「ああ、噛みつかれて死んだ人もいるらしいよな」
市内で起きたその事件を小耳に挟んでいた僕は言った。西野夫妻と楓川の土手で犬の散歩をしていたときに見かけた河川敷で全力疾走していた黒い犬のことが僕の脳裏に浮かんだ。
「新種の狂犬病かも知れないって噂だぜ」
「おっかないな。でも、警察が駆除を開始したみたいだから大丈夫だろう?」
「世界はコロナウイルスでパンデミック状態で、美船では新種の狂犬病でゾンビ犬出没ってか」
僕は冗談気に言った。
「こんなときにバイオハザードをやるなんて縁起が悪いね」
山本がそう言うと、僕らは2人で笑った。テレビ画面の中でラクーンシティの変電所へ続く狭い路地でゾンビ化したドーベルマンが出てきた。
「お!ケルベロスだ」
と山本。
「よっしゃ、撃ち殺そうぜ!」
と僕は言ってゲームを楽しんだ。
しばらくゲームをやった後、クッキーを連れて安房美船村の田んぼ道を歩いた。数百メートルおきに聳え立つ電線を結ぶ鉄塔が立っている以外には見渡す限り何も無い場所だ。山本も散歩に付き合ってくれた。田んぼと田んぼの間の道に出来た轍に沿って僕らは歩いた。相変わらず、よたよたと歩くクッキー。芝生で小便を済ますと、また歩き出そうとするが、一度動きが止まる。
「どうした、クッキー?」
僕が言うと、クッキーは少しふらつくが、ゆっくりとまた歩き出した。
「大丈夫か?」
山本もそう言い、クッキーの背中にそっと触れた。老いた犬を少し休ませてやろうと思い、僕らは立ち止まった。僕は右手にクッキーのリードを持ったまま道の脇の芝生に腰掛けた。山本はその道の傍らに流れる水路の錆びついた赤い樋門に寄り掛かった。太陽は西の方角に沈み始め、空を橙色に染めていく。今日という日も終わる。辺りからはゲッゲッゲッというちょっぴり下品なカエルの鳴き声と、山本が寄りかかっている樋門の下を通るコンクリートの水路をさらさらと流れる水の音、それから田園風景の先に広がる森のほうからはカァカァ鳴くカラスの間抜けな声が響いてくる。
再び歩き出し、田んぼ道の先に古びた白い建物が見えてきた。その建物の横には大きな青いタンクが4つ並んでいる。美船最終処分場だ。文字通り、廃棄物を埋め立てて最終的に処分する施設。住宅地に戻り、安房美船村駅のロータリーの中央の花壇を囲む小さな段差をクッキーが飛び降りようとした。だが、クッキーは上手く着地できずにすってんころりん。僕は立ち上がるのも一苦労の老犬を抱えて起こしてやった。だが、クッキーはいつもよりもふらついていて、すぐにアスファルトの上に座り込んでしまった。
「大丈夫か?」
僕が声をかける。いつもならクッキーは名前を呼ぶと、2つの黒い目と黒い鼻面、それらの3つの黒い点でこちらを一瞥するのだが、今は全く反応が無い。
「おい!クッキーの目が…」
中島が突然、驚いたように声を上げた。
「えっ?」
僕はクッキーを抱きかかえ、目を見てみた。クッキーの眼球の黒目の部分がぐるぐると回転している。目が回ってしまっている。おまけに頭もふらふらとしている。
「どうしたんだ、クッキー!?」
頭の中がパニクった僕はそう叫んだ。
「なんか、マズくないか?」
山本がそう聞いてきた。
「ああ、病院に連れていく」
「お前、車持って無いよな?一番近い動物病院ってどこだ?俺の車乗ってけ」
「マジか、悪いな!そしたら頼む!西木大通りに木南動物病院ていうところがあるんだ」
「ああ、あそこなら俺んちのそばだ。行こう」
「ありがとう!助かる」
僕は礼を言うと、クッキーを抱えたまま山本と家まで走り、山本が自宅から乗ってきた白いタントに乗り込んだ。山本が運転する車の助手席に座った僕はただ、目が回って頭がふらふらのクッキーの頭を撫でたり、肉球を握ってやったりすることしか出来なかった。まさかクッキーも、今町で噂の狂犬病にかかってしまったのか?嫌な予感がした。
西木大通りにある木南動物病院の獣医師の大橋恵子先生にはクッキーが子犬だった頃からお世話になっている。
「あら、クッキーちゃん、久しぶりだね」
たくましい体型で二重あごで団子っ鼻でショートヘアの大橋先生は明るい声でそう言い、クッキーを抱えて診察台に乗せた。別の獣医師も2人ほどやってきて、診察が始まった。
「よろしくお願いします」
と僕は頭を下げた。
「クッキーちゃん、相変わらずめっちゃかわいいわね。ちょっとお目目見させてね」
先生はアラフォーにもなって、自分がまだJKだとでも勘違いしているようなぶりっ子したしゃべり方だが、手の動きはベテランでテキパキとしていて、僕の愛犬の顔や体のあちこちを見た。
「これ、前庭疾患じゃないかしら」
大橋先生がそう言うと、そばにいた別の2人の獣医師もこくりこくりと頷いた。
やはりクッキーは病気のようだった。だが、例のゾンビ犬になってしまう病気ではないようだったから、僕は安堵の溜息をついた。前庭疾患とは、前庭という平衡感覚をつかさどる領域が侵され、神経症状が現れる病気。それを患った犬は目がぐるぐると回り、転倒してしまう。
「前庭疾患てね、年取ったワンちゃんがかかりやすい病気なのよ。お薬を出すから受付で待ってて下さい」
大橋先生に言われ、僕は病院の受付の椅子に腰かけた。そこで待っていた山本が
「クッキーちゃん、大丈夫か?」
と聞いてきた。
「ああ。前庭…なんとかっていう老犬がかかりやすい病気らしい。少なくとも噂の狂犬病ではないらしいから良かったよ」
「そっかぁ、すぐ良くなるといいな」
そう言い、山本は僕の肩に手を乗せた。
処方された薬を買い、木南動物病院を後にした。
家まで車で送ってくれた山本に礼を言った。
「色々ありがとな」
「ああ。クッキーちゃん、お大事にな。落ち着いたらまた遊ぼうぜ」
「おお。お互いコロナにも狂犬にも気をつけないとな」
「そうだな。無事でな。じゃあね」
山本は帰っていった。僕はクッキーを両腕で抱えたまま彼の運転するタントが住宅地を出て、見えなくなるまで見送った。
犬小屋がある家の前にクッキーを放置しておくのも気が引けたから、家の中に入れてやることにした。玄関を入ったところの廊下にペットのトイレシートとタオルケットと毛布を敷いてやり、そこに弱ったクッキーを下ろしてやった。もう最期が近いのだろうか。ときおり喉をごろごろ鳴らしながらまどろむ愛犬をしばらく眺めてから、僕はリビングへ行き、お湯を沸かしてコーヒーを淹れ、ソファに腰掛けてテレビをつけた。




