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愛犬のクッキー  作者: Satoru A. Bachman
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 自粛生活で暇人だった大場智明はふらふら町を散歩していた。東楓町にそびえ立つスコットランド風な美船時計塔を見物して、そのそばのマーズカフェでコーヒーを買った。東楓霊園にある戦没者記念碑の前のバス停のベンチに座ってコーヒーを大事にちびちび飲みながら今までの35年間の人生を振り返った。彼は人に自分の人生を語り聞かせることが好きだった。だからこの日もバスを待つ客がそのベンチに腰かけると、智明は話しかけるのだった。買い物に行くために玉寺アーケードの方へ向かうバスに乗ろうと1人の初老の女性がベンチに座った。

「僕は智明、大場智明といいます」

話しかける智明。振り向くおばさん。

「僕は千葉市出身で、小学校時代はスポーツ万能で、毎年のバレンタインデーにはクラスの女子全員からチョコをもらってました。えへへ。それから…」

はきはきとしていて見た目こそ爽やかなのだが、何だかうさんくさいその男に「あらそうなの」と無理やり笑顔を作って頷く初老の女性。

「中学時代は生徒会長を務め、若葉区というところにあるいつの時代も荒れてる桜舞中学校を平和に導いたんです。僕は空手2段だった父に鍛えられ、ケンカも強かったんすよ!いじめや暴力を働く悪ガキどもを片っ端から打ちのめしてやりました。故郷の桜舞町の不良たちからは“ウルフ”と呼ばれ、恐れられていたんです」

時々、話を区切り、気取ったように片手に持ったコーヒーのカップを口に運ぶ智明。

「高校時代ももちろん、生徒会長やりました。足も速かったから体育祭のリレーや障害物競走も僕がいれば、僕のクラスが常に1位でしたね。それから、女子に優しくすると絶対コクられてしまうから、女子の前では冷たい男を装ってたんです。そんな生徒会長だった僕が体育館の演壇に立つ度に全校生徒から歓声を上げられ、指笛を吹かれ、迎えられてたんすよ」

「あらそう…」

延々と語る智明に少々辟易の色を顔に浮かべるおばさん。彼女は玉寺アーケードの方へ向かうバスが来ると、“やっとこの変な男から離れられるわ”と言わんばかりに溜息をついてバスにそそくさと乗り込んだ。

今度は大人しそうな太鼓腹の中年親父がのそのそ歩いてきて、智明の隣に座った。

「僕は高校を出ると、アーティストの道に進んだんです。絵を描いて生計を立ててました。当時付き合っていた彼女は板〇友美というアイドルで、写真集なんかも出してたけど、公の場では見せないような服装やポーズでよく僕の絵のモデルになってくれました。体の相性が原因でフッちゃったんですけど、後悔してます…。あんないい子はきっともう表れないでしょう」

ベンチに座ってバスを待つ太鼓腹の親父は“なんだこいつ?”と言わんばかりに智明のほうを一瞥するが、それほど彼を気に掛ける様子も無く、ポケットからスマホを取り出し、ゲームをやり出した。それでも智明はお構いなしに語り続ける。

「バンドも組んでたから路上でよくライブもやってたんですよ。僕がボーカルで、バンド名はサウザンド・リーブス。日本語で言うと、“千枚の葉”。つまり、千葉って意味ですよ。カッコ良くないすか?ある日、テ〇ビ朝日から〇ュージックステーションに出演依頼の声が掛かったんすけど、断りました。僕は名声や公知なんかよりも僕自身のために歌いたかったから…」

そこまで言い終えると、智明は右手を額に置いて俯いた。そして、空を見上げてふうっと息を吐いた。そんな自己陶酔したような男を太鼓腹の親父はまた一瞥し、すぐにスマホのゲーム画面に視線を戻した。

「僕を支えてくれるファンたちには本当に感謝してるんです。あるとき、ファンや仲間たちに羽田空港に集まってもらって、みんなを飛行機に乗せ、僕の操縦で遊覧飛行をするという企画をやったんです。僕の人生は…あのときが、最高だったんです…」

そして、しみじみと過ぎ去った日々に思いを馳せるように智明は笑みを浮かべて、またコーヒーを一口すすった。

依然と無言の太鼓腹の親父はバスが来ると、のそのそとバスに乗り込み、去っていった。



 智明は誰もいなくなったベンチから立ち上がり、再び歩き出した。フォレスト・ガンプごっこはもう終わりにしよう。この頃、35才にもなって妄言ばかり吹かす自分自身に少々嫌気がさしていた。生徒会長の話も、絵描きの話も、アイドルと付き合っていたという話も、バンドの話も、全て大噓である。それらは智明の夢だった。実際には、学生時代はただのいじめられっ子の不登校児だった。大人になっても、非正規での仕事や日雇いバイトで食いつないできた。金運にも女運にも見放され、友達もいない腐った人生。いつも1人でいるから妄想だけが馬鹿みたいに大きく膨らんでいく。錆びた蛇口から噴き出す汚水で膨らましている水風船のように。この年齢になって、智明は自分の人生の敗北を悟り始めていた。

「いっそ誰か、僕を殺してくれないかな」

そうひとりごちて、歩き続けた。東楓町を抜け、楓川の土手に上がり、河川敷に下った。そこを漂う芝生と土の匂いがいくらか気分を落ち着かせてくれた。智明は誰もいない野球グラウンドのベンチに腰掛け、ぼうっと過ごした。夕日を反射する楓川の水面がオレンジ色の光線のように輝いている。かさこそと野球場の周りの草むらから物音がした。その辺の野良猫か狸でもいるのだろうと思い、智明は特に気に留めなかった。かさこそ、かさこそ、ガサガサ…。一匹の犬が草むらから出てきて、智明のほうへ近寄ってくる。黒い大型犬。更に2匹の毛がぼさぼさの犬が草むらから出てきた。3匹とも薄汚い雑種犬。犬たちは智明のほうへたったか走って近寄ってきた。

「なんだ、こいつら?」

智明は思わずそう言い、ベンチから立ち上がった。漂う悪臭。獣臭に混じる腐敗した肉のような臭いが鼻を突き刺す。眼球が緑色に濁った犬たち。これは普通じゃない。眉間にしわを寄せ、牙を剝き出している。黒い犬が智明に飛び掛かる。

「ああああああっ」

智明の悲鳴が辺りに響き渡る。ベンチにつまずき、仰向けに倒れた智明の首に黒い犬が噛みつき、他の2匹も駆け寄ってきて、彼の腹や足に噛みついた。

「ああああっ、助けてくれ!」

3匹の犬たちの牙がぐさり、ずぶりと智明の体のところどころに突き刺さる。息も止まるほどの激痛が走る。熱い血が噴き出し、体中が血で赤く染まっていく。

智明の視界の中に土手を自転車で走る警察の姿が見えた。二木隼だ。

「ずんさん、助けてくれぇ!」

河川敷のほうを振り向く二木。彼は犬たちに襲われている智明に気づくと、自転車を降り、土手の坂を駆け下りて、智明のほうへ向かってきた。黒い犬が智明の首の皮膚と肉を嚙み千切り、ステーキでも貪り食うように美味そうにがぶがぶ咀嚼して飲み込むと、口の周りに着いた血を舌でペロリと舐めた。智明の意識は彼の体を離れ、河川敷の上空へすうっと消えていき、天に昇っていった。二木がホルスターからピストルを抜き、黒い犬を発砲した。黒い犬の額から赤茶色の血がほとばしり、どさりと地面に倒れた。他の2匹の犬は銃声に驚き、野球場の外の深い草むらの中へと逃げていった。二木が助けようとした男は首を嚙み切られ、こと切れていた。智明は目を開いたまま、どこともない場所を見つめている。彼の目にはもう何も映っていない。

“いっそ誰か、僕を殺してくれないかな”

と願った智明のその夢だけは実現したのだった。

血まみれの男と犬の死体を前にして、二木は足をがくがく震わせ、しばらくは何も出来なかった。




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